東日本大震災から1週間後、津波により甚大な被害を受けた宮城県沿岸部地域を歩いた。目の前に広がるのは衝撃的な光景で、それは目を覆いたくなるような、形容する言葉すら見つからないほどのものだった。現地で被災された方の話を伺っても、返す言葉に詰まり、励ましの言葉もうまくかけられなかった。

 

「ハサミだけでも持って逃げれば良かった。」と、女川町で「パーマ屋ありす」という美容室を営んでいた女性は語る。
女川港からほど近い所にある店舗兼自宅は基礎とフローリングの床のみを残し、他は跡形もなくなっていた。まだ築一年程度であった。
地震発生当時、女性は美容室で立っていられない程の揺れを感じたという。揺れがおさまりしばらくして外に出ると、津波の迫る「ゴォー、バリバリ」という音が聞こえ、必死に高台へと急ぎかろうじて難を逃れた。同じく女川町の実家に暮らす家族も高台に避難していたため無事で、みんなの命があることだけが唯一の救いだと語った。

津波は、住民から暮らしのすべてを奪っていった。

目の前には瓦礫の山、先の見えない長い戦いの日々が続いている。

 

南三陸町の町役場に勤める40代の男性は震災後、仮の町役場と災害対策本部のある町の体育館で物資の受付や搬入、またその管理を担当していた。支援物資に頼る極限の生活のなか、目に涙を浮かべながらも「復興の役場人生だ」と未来を見据えていた。川を遡上した津波により沿岸部から離れた地区でも大きな被害がでており、町全体が壊滅的な被害を受けた。生活再建の目処も立たず、自立復興への道はまだまだ長く険しい。

 

信じ難いほど残酷な現実の、当事者。しかし、被災された方々は懸命に明日へ進もうとしていた。他人事にはせずに、考え、一緒になって未来を描いていくように、 支援を継続していかなければいけない。新しくも懐かしい、懐かしくも新しい平穏な日常を、もう一度築き上げるために。

(オルタナS しおの)

 

 

ビルの上の車が津波の高さを物語る(女川町)

道路を塞ぐ瓦礫と船(女川町)

元の町並みは想像もつかない(南三陸町)

防波堤は崩れ、町は75センチ沈んだ(南三陸町)

「チリ地震津波災害記念碑」跡 虚しく何かを訴える(南三陸町)