ソフトバンクの孫正義社長は16歳で、親戚中の反対を押し切り米国に留学した。その当時、父親は倒れ、一家を支えていたのは高校を中退した兄一人だった。そんな状況でも日本を飛び立てたのは、「将来の家族、そして、私と同じような境遇で苦しんでいる在日韓国人の若者のために、社会に貢献したい」という強い決意だった。(オルタナS副編集長=池田 真隆)

これから留学をする大学生にエールを送った

これから留学をする大学生にエールを送った

孫社長がスピーチしたのは、文科省の「官民協働海外留学支援制度 トビタテ!留学JAPAN」の第一期派遣留学生壮行会でのこと。同プロジェクトでは、学生はオリジナルに留学の企画を立て、申し込むことができる。複数の大手企業が協賛に付いており、試験を通過した学生は留学費として奨学金が支給される。孫社長は、同プロジェクトへの最大の寄付者であり、留学をする大学生に約15分間、激励のメッセージを語った。

スピーチの冒頭では、戸籍がなかった過去を告白した。20歳を過ぎてから、区役所に戸籍を取りに行くと、そこには、「佐賀県鳥栖市5軒道路無番地」と書かれていた。孫社長は「何で無番地と書いてあるのだろう」と思い、その時は意味が分かっていなかった。

その後、考えていると、日本に移民してきた祖父母に関係があると気付く。孫社長は今でも、祖父母がどのようにして日本に来たのか教えられていない。「漁船の底に潜り込んで来た」とも聞かされているという。

そんな形で日本に来たので、祖父母は当然住む場所がない。たどり着いた鳥栖市の駅から200mほど離れた場所に、トタン屋根で雨風をしのぐ板を張って何とか生き延びてきた。

その日を生きることに精一杯の暮らしをしていたので、父親の仕事も「ロクなものではなかった」と振り返る。「日銭を稼ぐためには、焼酎を作って売る、豚を育てて売る、空き地で野菜を作って売るなど、そんな毎日だった」と語る。

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何とか人並みの暮らしができるようになってきたとき、孫社長の父親は過労で倒れてしまう。中学生のときだった。そこから、「家庭は暗くなった」と言う。母親は毎日泣き、高校1年生だった兄は高校を中退し、家計を支えるために働きだした。

しかし、そんなときに孫社長は、「米国に留学に行く」と決めた。だが、待っていたのは親戚中からの非難。「兄は高校を中退してまで、働いているのに、なぜお前一人で贅沢に留学に行くのだ」と。

孫社長は「夢のために行く」と訴えたが、親戚からは「それは、お前個人の夢だろ。そんなことよりも家族を支えるべきだ」と否定された。

親戚中から反対意見をもらっているなか、孫社長は兄に留学に行きたいと伝えた。「なんでや?」と聞かれたが、「兄ちゃんは今、家族を支えてほしい。おれは、将来の家族、そして、多くの苦しんでいる人たちを支えるために行きたい」と返した。そうして、意思を曲げずに、米国に発った。

アメリカに行ってからは、勉強の鬼になった。「家族のためを思うと休んでなどいられなかった」と、寝るとき以外のすべての時間を勉強に費やした。

孫社長の原動力になったのは「家族のため」に加えて、自分と同じような境遇で苦しむ子どもたちを助けたいという思いもあった。

「国籍で苦しんでいる若い在日韓国人がいる。僕も子どもの頃に、恥しい、隠したいと悩み苦しみ、自殺したいとも思った。だから、僕は、国籍なんてものは、どうでもいいんだ。ただの紙切れなんだということを証明したいという思いで発った。どこの生まれだろうが、みんな同じ可能性を持っているんだ」

留学から帰ってきたとき、先祖代々の「孫」という名前を名乗った。当時、家族全員は「やすもと」という名前を名乗っていたが、「孫正義」として社会に貢献したくそうした。

スピーチの最後には、「もし16歳で留学していなかったら今の私はいないでしょう。これから飛び立つみなさんを応援しています」と締めくくり、エールを送った。

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