森元美恵子さん(68)(旧姓:川崎美恵子さん)は、第二次世界大戦当時、日本兵としてインドネシアに出兵していた父と、インドネシア人の母のもとに生まれた。その後父は日本に帰還し、美恵子さんはインドネシアで母と暮らすことになる。1966年、「父に会いたい」という思いもあって、美恵子さんは19歳で日本に留学。だが、来日2年目の1968年にハンセン病と診断され、東京都東村山市の多摩全生園へ隔離された。(横浜支局=細川 高頌・横浜国立大学教育人間科学部人間文化課程3年)

ハンセン病患者が隔離生活を送った「山吹寮」

ハンセン病患者が隔離生活を送った「山吹寮」

ハンセン病であると伝えられないまま療養所へ連れてこられた美恵子さんは、日本語もまだ満足に話せなかった。そのため隔離されても自分の置かれている状況を理解できず、数カ月間泣き続ける日々が続いた。

「とにかく不安だった。怖くてたまらなかった」と美恵子さんは当時を振り返る。食事も喉を通らなくなり、立っていることもできなくなった。医師から、療養所の外の友人と連絡をとらないよう指示され、名前を変えるよう促された。そこで美恵子さんは、療養所での名前を川崎美恵子から「川上恵美子」へと変えた。

1974年、美恵子さんは療養所内で知り合った森元美代治さん(美代治さんについては前回の記事で取り上げた)と結婚する。二人には共通の願いがあった。それは「子供をつくる」こと。特に母子家庭で育った美恵子さんは、家族が欲しいという思いが強かった。

しかし二人の間に子どもはできなかった。原因は美代治さんが治療のために内服していた薬の副作用だったという。当時の主治医からは薬の副作用について一切説明はなかった。

それでも自分たちの子どもが欲しかった二人は養子をとることも考えるが、多摩全生園の中で国から支給された最低限の生活費では養子を養うことは経済的に厳しかった。ハンセン病が発覚した後、家族や友人との縁を切らなければならなかったため、養子をとる際に必要となる保証人を頼める人もいなかった。

その後、美恵子さんは40代で乳がんにかかり、生死の境に立たされる。「それでも今こうして生きているのは、きっと生かされているのだと思う」「子どもを諦めたとき、悔しくてしかたなかった。その悔しさを、今は夫とともに差別をなくすためにぶつけている」。

二人は今、日本はもちろん、ブラジルや南アフリカなど海外でもハンセン病患者に対する差別を無くすために講演を行っている。

だが、故郷のインドネシアでは、日本以上にハンセン病患者への差別が根深く、インドネシアに暮らす友人に自分や夫が元ハンセン病患者だということは伝えていない。

「ハンセン病患者」と「外国人」という二つの差別に苦しみ、今も故郷では元ハンセン病患者であることを隠し続けている美恵子さん。前回インタビューをした森元美代治さんによれば、ハンセン病の隔離施設の中でも、より症状の重い者が差別されることも多かったという。差別という枠組みでとらえてしまうと、その中にあるより深い差別や、差別の多様性を見落としてしまいがちになる。

だからこそ、一人ひとりの証言を聞くことが重要になる。来年1月27日には、都内でハンセン病の差別撤廃を訴えるグローバルアピール(世界宣言)の式典が行われる。この機会に、古くから続いてきた差別の証言に、耳を傾けてみてはどうだろうか。

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