藍の名産地徳島に新しい波が起きそうだ。その旗振り役は世界的なサーフスポットとしても知られる同県海部郡海陽町で生まれた永原レキさん(35)。学生時代は4年連続でサーフィン王者に輝き、海外放浪したのち地元に戻ってきた異色のキャリアを持つ。(オルタナS副編集長=池田 真隆)

永原レキさん、藍染めしたスケートボードを手に持ち、後ろにはサーフボード

「会社を辞めて四国88カ所のお遍路巡りをして、その後、海岸沿いに藍染体験ができるお店を立ち上げます」――。永原さんは穏やかな表情で淡々と語りだした。青く染まった手に持っているのは、藍染めしたスケートボード。「これで巡ります」と笑顔で続ける。

永原さんと始めて会ったのは2月15日、代々木第一体育館で開かれた国内最大規模の合同展示会「rooms(ルームス)」で。この展示会はアッシュ・ペー・フランスが2000年から開いてきたもので、毎年数百のブランドが集まる。

筆者はエシカルエリアが新設された2003年から毎年訪れてきた。エシカルエリアを見て周っていたとき、出展していたアパレルブランド「Atelier Fuwari(アトリエ フワリ)」の鈴木弘美さんに声をかけられた。

鈴木さんはタイに生産拠点を持ち天然素材で服を作っている。年末に取材して、その時に鈴木さんが言った、「(使っている素材)すべてが土に還せる服」という言葉がキャッチ―で印象深かった。

鈴木さんと話していると、「出口付近にサーフボードを藍染めしたレキくんがいるよ」と教えてくれた。「私が着ているこの服も染めてくれたの。四国のお遍路を巡って、自分で藍染体験ができる教室を立ち上げるらしいよ。おもしろいから会ってみて」。

こうして、永原さんとお会いできた。藍染めの服を着て、ニット帽からは襟足がのぞく。その指先は青く染まっていた。

永原さんは藍染衣料メーカーのトータス(徳島県海部郡海陽町)で広報・藍関係販売チームマネージャーを務めている。藍染め職人として若い頃から修行してきたのだろうと思って、キャリアを聞くと、「藍染めには関わり出したばかりです」と。

国内外から様々なブランドが集まったルームス

有名なサーフスポットとして知られる海陽町で生まれた永原さんは、大学は強豪サーフィン部がある城西国際大学(千葉県東金市)に進学した。在学中には、全日本学生サーフィン選手権で4連覇を達成。プロサーファーを目指していたが、その夢は果たせず、米国やオーストラリアなどを放浪する。環境への意識は海外放浪中に持ったという。

2009年に帰国し、これから何をして生きていくのか考えているときに、この会社と出会った。会社は永原さんの故郷の海陽町にあるのだが、出会ったのは東京だった。

東京ビッグサイトで開かれていた自然派プロダクツの展示会で、偶然手に取った藍染商品がトータスのものだったそうだ。タグには「海陽町」と故郷の名があり、運命を感じたという。こうして地元に帰ることを決めた。

トータスで藍染めを学び、サーフボードやスケートボードを染めるなど、ユニークな商品をつくっている。ボードに染めた布を貼り、上から透明の樹脂でコーディングした。これらの商品は、濃さは一辺倒ではなく、中心で濃淡のコントラストをつけている。暗いほうが海で、明るいほうが空だという。中心には、曼荼羅模様が捺されている。

永原さんはこのほど、全国のレクサス販売会社と新聞社が開いている人材育成支援事業である「注目の匠」にも選出された。全国から優秀な若手工芸作家が52人選ばれたが、その内の厳選された5人にも入った。

4月には独立し、「in Between Blues」というブランドを立ち上げる。海陽町の海岸沿いに藍染め体験ができるお店を構えるという。すでに物件も見つけている。ただ、お店を開くまでの間に、「これでお遍路を周ってこようと思っています」と、スケートボードを手に持つ。

永原さんの指先は藍で染まっている

藍染めは江戸時代に盛んになったが、その後、化学染料の登場で、年々減っている。日本の「青」を守り抜くために、「藍染めの文化を広めていきたい」と力を込める。

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