23歳の時に、テレビ番組の撮影でユーラシア大陸を横断したことがきっかけで、世界中を旅するようになった一人の男がいる。彼の名前は、ホーボージュン(49)。ペンネームのホーボー(HOBO)とは、英語で「放浪者」のことである。「パリ〜ダカールラリー」への参戦を始め、これまでの走破距離は世界のべ108カ国・13万5000キロ以上に及ぶ。

その豊富なアウトドア経験をもとに、『ビーパル』『山と渓谷』『ピークス』など、多くのアウトドア誌に連載を持つ、アウトドア・ライターである。

「22歳のときに全てを捨てて、サハラにいく為に人生をかけた」と語るホーボージュンさんの生き様に迫った。(オルタナS副編集長=池田真隆)


ホーボージュンさん


■地平線の向こう側に行ってみたい

ホーボージュンが就職活動をした時期は、バブル真っ盛りのときだった。ワインでも洋服でも高い物から売れていく時代だった。もちろん就職も超売り手市場。ホーボージュンも「いくらでも内定が取れた」と振り返る。

中央大学の学生であったホーボージュンは、ジャーナリスト志望であり、講談社の面接を受けたあと、会社四季報を買うために本屋に立ち寄った。すると、会社四季報の隣に、山積みにされていた写真集に目が止まる。

「褐色の無」という、パリ・ダカールラリーの写真集であった。通称、「パリダカ」と呼ばれているそのレースは、フランスの首都パリから、アフリカのダカールまでの約1万2千キロを競い合うサバイバルレースである。

その写真集は、パリダカに出場している日本人のドキュメンタリー写真集だった。デューン(砂丘)に突き刺さった車や、砂漠を2輪駆動で走るトヨタのAE86(カローラ)の勇姿が収められていた。

「サハラ砂漠をカローラで超えることに驚愕した。通常、砂漠は4輪駆動で走るので、2輪駆動では、勢いをつけて飛びながら走るしかない。その走り方から、彼らは『フライングジャップ』と呼ばれていた。当時は、バブル社会で貨幣経済が中心だったが、大の大人が貨幣に目もくれずに、地平線を超えることに憧れ、砂漠と真剣勝負している姿に衝撃を受けた」と、ホーボージュンは話す。

その写真集を見終えたとき、マスコミにこのまま就職しても意味がないと思ったという。なぜ、そう思ったのかと言うと、「自分の中に伝えるべきものがないと、何も伝えることはできない。本気で何かに挑んだことがない人間がいくら雑誌など作っても意味がない」と思ったからと答える。

ホーボージュンは、買うはずだった会社四季報ではなく、『褐色の無』を購入し、その写真集を制作していたチームACPに電話し、弟子入りを志願した。

チームACPに丁稚奉公が決まったとき、ホーボージュンは大学4年生だった。そのまま、代官山の事務所で働き、大学も留年した。「自分にとっては、留年はどうでもよかった。マスコミに入らなくてもよいと思っていた。とにかく、地平線を超えてみたい。サハラ砂漠を渡ってみたい一心だった」と話す。

ホーボージュンさん


チームACPの「ACP」とは、アドベンチャー・クリエイティブ・パーソンズのことである。世界中の僻地へ、テレビ番組のドライバーやカメラマンを送る編集プロダクションだ。

ACPの代表は横田紀一郎。ホーボージュンは学生記者からスタートした。パリダカのスタートラインで、これから冒険レースに挑む男たちの写真を撮った。写真集で見たサハラの地でだ。「褐色の無」とは何もない状態を指す。何もない宇宙のことを「サハラ」と呼んでいるのだ。

ちょうどその頃は、大晦日にパリダカラリーが放送されていた。そこで、ホーボージュンは、代表の横田紀一郎に、「こういう男たちみたいになるにはどうしたらよいのだ?」と、相談する。

すると、横田は、「運転がうまいだけでも、体力があるだけでもダメだ。パリダカは人間の総合力が試されるレースだ。お前はまだ何もできないし、世間も知らないただのガキだ。だから、修行に出す」と言い、テレビ番組のクルーとして世界各国の僻地へ行くロケ隊として修行に出された。23歳のときだった。

TBSの『キャラバン2』というテレビ番組のクルーとして、ユーラシア大陸横断後、サハラ砂漠とはどんな場所なのか知りたくて、サハラ砂漠に行った日本人全員に会いに行った。1988年の時点で、サハラを渡った日本人は48人いた。

冒険家の風間深志や、俳優の夏木陽介など、全員に感想を聞いた。48人に会って一番印象的だったのは、「足首から上が全部星だった」と答えた映画監督の松前次三の話だという。

この人の話を聞いたときに、絶対にサハラに行こうと決めた。地平線に囲まれる景色を見ないで死ねるかと思っていたという。しかし、サハラへの夢をますます強く持っていた当時、ホーボージュンに不運が訪れる。

それは、ACP代表の横田との衝突である。「会社は男社会だったので、方向性が合わずに意見が別れ、喧嘩別れのような形になった」と話す。


ホーボージュン


26歳の夏、ACPを辞めたホーボージュンはプールの監視員をしていた。就職をせずにバイトで生活をしていたが、「まったく気にならなかった」という。

当時の心境をホーボージュンはこう振り返る。
「自分はサハラを超えるのだ。どうしたらよいのかは、わからなかったが、きっとできるに違いないと信じていた。だから、バイト生活だろうが不安ではなかった」

ある日、プールの監視員をしていた時期、とある先輩から連絡がくる。「日野自動車というトラックメーカーがパリダカに参戦する。プレスのスタッフとして、その道程の写真をレポートできるチームを編成している。苛酷な仕事なので、若くてスペシャリストの人間を探している」と。プレスとして行けることになったのだ。選手と同じようにレースする。違うのは、レースに命をかけるか、写真に命をかけるかである。

「パリダカは最低2千万円はかかる。だから選手は30もしくは40代が多い。なぜなら、経験と資金があるから。まだ、26の小僧が車で走らせてもらえるのは、ありえないことであった」と、ホーボージュンは話す。

23歳から3年間願い続けてきた念願のサハラ砂漠に、ついに入ったのだ。

「ずっと地平線を楽しみにしていた。それまではユーラシア大陸横断やトルクメニスタンや中東にも行ったが、本物のサハラ砂漠に入ったのは、その時が始めて。360度一本の線以外何もない世界に囲まれたとき、いったい自分がどう感じるのかすごい興味があった」

しかし、楽しみにしていたはずのサハラ砂漠の印象を、「感動したのは最初の3分間だけ。3分は感動したが、その後に心臓が口から飛び出しそうになるくらいの恐怖に襲われた」と話す。

ホーボージュンさんも走ったパリダカレース風景


「恐ろしさで呼吸が浅くなった。叫びだしたくなるくらいの恐怖に襲われた。なぜなら、360度が砂なので、それを渡らない限り生きて帰れないからである。選択肢は生きるか死ぬかだけである。そのときは、ナビゲーターとフランス人のスタッフと俺の3人しかいなかった。ドライバーは俺だった。俺が運転して、地平線の向こう側にたどり着かない限り帰れない。その恐怖がすごかった。26で生まれてはじめて、生き死にを意識した。地球のスケールの大きさに気がつかされた22日間だった」

サハラには多様な種類の砂がある。軽い砂では、3日間落ちてこない砂もある。なので、もしこの砂の中にうもったら、まさにアリジゴクである。レースで怪我人だけでなく、死者が出ることも知っていた。

太陽の光が真上から刺すので、陰が出ない。砂漠に空いている穴が見えない状態で、時速200キロで突っ走る。万が一、穴にはまると大事故になる。しかも、砂漠の真ん中でクラッシュしても救急車はすぐには来てくれない。

ベースキャンプに行けば、500ccのエビアンを2本支給される。基本的に自由に飲める水は、その2本しかない。昼間は50度、夜は2度まで下がる。

毎日砂埃なので、少しずつ貯めた水で頭を洗う。けれど、髪をかいている間に、流した水が蒸発して、乾いてしまう。しょんべんも抹茶色になる。身体はがりがりに痩せる。そんな毎日だ。

だけど、生命力はどんどん強くなる。毎日の平均睡眠時間は約2時間で一日約400キロを走る。睡眠時間が一番短かった日は、14分だけ。車の下に穴を掘って、そこで寝る。眠くなるが、1万2千キロを22日間で渡りきるには、寝てる暇はないのだ。まさに、サバイバルレース。身体に疲労はたまるし、痩せるが、生命力は高まり、あらゆるでき事にすごく敏感になる。

「生きるとはこういうことなのだと気付いた。負けたくないという意志や、諦めないことの大切さを実感した。パリダカには強い男たちが多くて、俺が出場したレースで優勝したフランスの英雄シリル・ヌブーという選手は身長160くらいだが、バイクに足が届かなかった。モンスターマシンなので乗ったら最後、ブレーキを踏むことはできない。そのヌブーが、トップで争っているときに、クラッシュして、足の骨がむき出しになった。イーパブ(ボタンを押すと、衛星を通じて救助スタッフが向かってくる)を持っているが、ボタンを押すとリタイアにもなるので、足の骨が折れたまま乗り、走った。そのような男たちを何人も目の前で見たので、人間の限界なんてないのだと感じた」と話す。

「パリダカの世界は、極限の世界。地球の最後の世界である。命も生まれない場所なのだ。陽が昇るといきなり50度になり、沈むと2度まで下がる。宇宙空間のようなものである。水もなければ雲もなく、風邪がふくだけである。地球が滅びた後の最後の姿。原子の姿だ」と、ホーボージュンはパリダカの経験を語る。

ゴールしたときは、海の命の匂いを感じたという。「何もないサハラから海を見たときに、美しさではなく、寄せては引いていく波の中に存在するいわしやクジラやプンクトンなどの原子の命たちに、湧き上がるような力を感じた。地球は奇跡的なものだと思った。人が住んで、植物が咲いて、水が涌いている。その風景は自分の一生を左右する体験だった」と、話す。

今では、サハラを超えられる人はいない。危険なために民間人は入れないのだ。パリダカも2009年より南米アルゼンチンの首都ブエノスアイレスからチリを回る周回コースに変更された。

取材の最後の質問として、ホーボージュンさんに若者へのメッセージをお願いした。

「そもそも人生に道なんてないのだ。よく講演などで、『ぼくもいつかジュンさんみたいになりたい』といわれるが、よく言うのが、たぶん君はいつかと言っている限り、一生チャンスは来ない。いつかなんて言っている人には、その時は来ないのだ。だから、行ってみたいと思ったら今いかないと、行きたいと思ったら、その時がいつかなんだ」


ホーボージュン:
1963 年東京生まれ。アウトドア・ライター。ペンネームのホー ボー(HOBO)とは英語で[放浪者]の意。
23 歳のときにテレビ番組でユーラシア大陸を横断したことをきっかけに、世界 中を旅するようになる。「パリ~ダカールラリー」への参戦を始め、これまでの走 破距離は世界のべ 108 カ国・13 万 5000 km以上に及ぶ。 現在はその豊富なアウトドア経験をもとに、『ビーパル』『山と渓谷』『ピークス』 『フィールドライフ』『カヌーライフ』『モノ・マガジン』など多くのアウトドア 専門誌、ライフスタイル誌に連載を持つ。 著書に『実戦主義道具学』『実戦主義道具学 2』(ワールドフォトプレス)『山岳装 備大全』(山と渓谷社)『四国お遍路バックパッキング』(小学館)がある。