2012年に法政大学(東京・市ヶ谷)を卒業し、岩手県陸前高田市広田町に移住した三井俊介さん(24)は、大学時代のボランティア仲間とNPO法人を立ち上げ、地方の課題を若者が解決する事業を展開する。去年は人口3500人の広田町に56大学から250人を呼び込んだ。「復興支援」ではなく、「自分らしさ」を見出すために移住したと語る。(オルタナS副編集長=池田真隆)
広田町との出会いは2011年4月。三井さんの知人であるフォトジャーナリストの佐藤慧さんが所属するNPOが東北へ行く機会があり、その車に同乗した。
陸前高田市に着き、手伝えることはないかと声をかけたが、隣町である広田町を見てくれと言われる。広田町は、広田湾に面した漁師の町だ。震災時には、広田湾と太平洋の両側から津波被害を受け本島と分断され、陸の孤島となり、支援の手が遅れていた。
■帰ってくれと追い返される
人口3500人のうち死者・行方不明者は50人を超し、1112世帯中400の世帯が全壊・半壊となった。町に1校あった中学校も津波で流され、150隻あった漁船も1隻を除いて全てなくなった。
広田町では、外部のNPOは受け入れていなく、三井さんも例外ではなかった。「どうせすぐにいなくなるのでは」と追い返された。しかし、何度も避難所に通いコミュニケーションを取った。
避難所のリーダー的存在である広田町コミュニティセンターの藤田芳夫事務局長(66)は、「家族や友人などを失って傷ついている被災者もいるので、受け入れ方に迷ったが、若者がいることで場がにぎやかになるなら受け入れてもよいかと思った」と話す。
以来、月1回のペースで広田町へ通った。高齢化率60%を超える町なので、若者の機動力と知恵を生かした取り組みを行った。町内を周り、被害状況地図を作成し、子どもたちへの学習支援や、お祭りの運営も手伝った。
夏には、学生82人を連れたツアーも実施した。海岸清掃に届いた支援物資の仕分け、町民との交流や子どもたちとのスポーツも楽しんだ。
■よそ者・若者・ばか者の奮闘
時はすぎ、2012年3月に三井さんは移住した。「復興へ力が足りない。50年後にはなくなってしまうかもしれない広田町を必ず復興させたい」という思いと、「自分らしく生きられる」ことが決め手になった。「自分らしく生きられる」と言う根拠は、自然の中で、足るを知る生活を送れているからだ。
移住当初は、空き家を借りて一人で暮らしていたが、今ではセットの仲間3人で暮らしている。主婦を対象にしたパソコン教室やボランティアツアーを企画した。パソコン教室は、初年度に受講生36人を集めた。
ツアーには、去年で社会人、学生合わせて400人が参加した。農家でご飯を食べる会や町民と山を散策して、広田町の魅力を発見することを行った。
これらの活動は、遊びのように見えるが、地域の方と意見を交し合うことで、新しい化学反応を生み出す。「若い人が外で遊んでいるのを見ると涙が出るほどうれしくなる」という声から事業のアイデアまで生まれた。今年6月に開始した、農家の手作り野菜を配送する事業は、その一つだ。月間20箱限定だが、7月8月と完売した。
今後は、「地域課題の解決」と「雇用創出」の2本柱で取り組む。雇用創出は、手作り野菜の配送事業とパソコン教室を拡大していく予定だ。パソコン教室の受講生は今年度70人を突破し、全町民の2%を占める。
地域課題の解決は、ボランティアコーディネートを発展させた形で行う。今年春から行っている「チェンジメーカープログラム」だ。
このプログラムは1週間もしくは3週間をかけて宿泊し、課題発見・解決のアクションを起こす大学生向けプログラムだ。今年春には、1回目を開催し、7人が参加した。8月には、2回目が開催されている。
「セットの活動は広田町だけに特化したものではない」と三井さんは話す。活動のコンセプトは、「若者の力で地域課題を解決すること」だ。「広田町と同じく過疎化が進んでいる地域は日本に多くある。ここで感じたものを持ち帰って、それぞれの活動に生かしてほしい」。
大手キャリアを積んで、NPOや社会起業の道に進む流れはあるが、三井さんのケースは稀だ。移住してから不安はないわけではなく、「復興に関して実力も専門知識もなかったので、心ないことを言われることもあった」と振り返る。
しかし、その中でも励みになったのは、町民から言われた言葉にある。「君はもう家族の一員。一緒に復興をがんばっていこうね」。地域活性化に必要なのは、「よそ者・若者・ばか者」だと語られるが、その3要素を全て満たす三井さんの奮闘は続く。