東日本大震災が起きてから1年後の2012年4月、東京から一人の若者が岩手県陸前高田市広田町に移住してきた。三井俊介さんだ(26)。彼はNPO法人を立ち上げ、余った地元の野菜を販売する宅配事業や、空き家を改築して宿泊施設にするなど、都内の大学生を巻き込みながら、新しい動きを起こしてきた。移住して3年、「陸前高田を変える風になれ」と地元住民から背中を押され、市議選に立候補した。(オルタナS副編集長=池田 真隆)
陸前高田市議会議員選挙が7月30日、告示され、立候補者19人(現職12人、新人6人、元議1人)が出揃った。同市の議席数は18なので、競争選となった。投開票日は6日。
立候補した19人のなかで、三井さんは唯一の20代(立候補者の平均年齢は52.7歳)。もし、三井さんが当選した場合、同市では史上最年少市議の誕生となる。
三井さんは1988年茨城県筑波市生まれ。法政大学時には、国際協力に興味を持ち、学生団体WorldFut(ワールドフット)を立ち上げた。同団体では、大学生向けのフットサル大会を企画し、その収益金でカンボジアの農村部の学校建設などを行ってきた。
大学4年生のときに、東日本大震災が起き、その翌日から友人たちと復興支援を行った。大学の知り合い511人を都内に集め、1カ月で洋服や非常食など1130箱の物資を仕分けして、東北へ送った。三井さんは東北に血縁はないが、SNSで被災した地域の情報を目にするたびに、「何とかしなくては」と強い思いに駆られ、就職活動はせずに復興支援に尽力した。
■助かったのは1隻だけ
広田町との出会いは、2011年4月。三井さんの知人が陸前高田市に支援活動をするため、車で向かう機会に、同乗した。
陸前高田市に着き、三井さんは「広田町を見てくれ」と避難所のスタッフに言われる。広田町は、広田湾に面した漁師の町だ。震災時には、広田湾と太平洋の両側から津波被害を受け本島と分断され、陸の孤島となり、支援の手が遅れていた。
人口3500人のうち死者・行方不明者は50人を超し、1112世帯中400の世帯が全壊・半壊となった。町に1校あった中学校も津波で流され、150隻あった漁船も1隻を除いて全てなくなった。
広田町では、外部のNPOは受け入れていなく、三井さんも例外ではなかった。「どうせすぐにいなくなるのでは」と追い返された。しかし、何度も避難所に通い、「どんな思いでここに来たのか、東京にいる仲間はこんな奴ら」など、コミュニケーションを取り、信頼を積み重ねていった。
三井さんは広田町から、東京で待機していたメンバーに連絡し、被災した現状を共有し、何ができるのか日夜話し合った。その結果、若者の体力を生かして、被災状況をまとめた地図作りや、都内の大学生を広田町へ連れていき、地元住民との交流会を行った。
活動を始め、1年が過ぎ、卒業を迎えようとしていた。同級生が就職をするなか、三井さんは広田町のまちづくりにより深くかかわるため、移住することに決めた。
三井さんは移住した理由を、「復興支援にかかわるためというよりも、豊かな暮らしができるから」と話す。
ここでいう「豊かな暮らし」とは、「花の開花で季節の移り変わりを感じたり、旬の食べ物を味わえたり、小さな幸せに気付きながら暮らすこと」と説明する。
移住して一年目、お正月に筑波の実家に戻り、広田に帰ってくると、家の玄関にしめ縄が結ばれていた。近所の人が付けてくれていたのだ。「ここの人たちは一つひとつの伝統行事を大事にしているのだと感じた。お正月を皆で祝っているその雰囲気が素敵で、この体験から、東北で暮らす人は丁寧に生きているのだなと思った」。
丁寧にしているのは、行事だけでなく、日々の時間も。広田町は漁師の町。そのため、気候によっては仕事ができないときがある。いつでもできるというわけではないので、できる時間を大切にしている。
広田町は高齢化地域であるため、三井さんの年齢はちょうど孫にあたる。そのため、採れたばかりの魚介類や野菜をおすそわけしてもらったり、ご飯を一緒に食べるために誘ってもらうなど、温かく見守られている。もちろん、優しさだけでなく、地域に受け入れられる厳しさを実感したこともある。
移住したばかりの頃は、「覚悟がない」とよく言われていたと明かす。東京では、「大学を出て企業に就職する道を捨てて、東北に移住する」と話せば、その文脈で伝わるが、広田町ではその文脈では伝わらなかったという。
広田町の住民から、「年収はいくら稼ぎたいのか」と聞かれたさい、「いや、お金じゃないです。広田のためになることをやっていく過程で、結果としてお金が生まれることになると思うのです」と答えた。
広田町の文脈からすれば、「こいつはいつでも逃げるかもしれない」、「根付く気がない」、「ここで暮らしていくには最低でもこれだけ必要だとわかるはず」、そうして、「覚悟がない」と言われ続けた。
広田町の文脈を理解できずにいたことで、あるとき、宛名不明の「出て行け」と書かれた手紙が家の郵便箱に入れられていたこともある。それでも、自分がいることでできることはあるはずと考え続けた。
そこで生まれたのが、三井さん自身が広田町で感じた「豊かな暮らし」を同世代の若者たちに伝える企画だ。それが都内の大学生向けの、広田町を回るツアー「チェンジメーカープログラム」で、町を案内するのは、広田町の住民に依頼した。住民が東京から来た若者に、自分たちの住んでいる町を案内することで、改めて町の魅力に気付くこともある。
広田町を見て回った後、大学生と住民で、どうしたらもっと魅力的な町になるのかを話し合う。そこで出てきたプランを大学生主導で実行する。このプログラムは、年に2回の頻度で行っており、1回当たり、100人以上の住民が協力している。
■1カ月で全世帯を行脚
三井さんの取り組みで広田町に来町した人数は、1500人を超える。そのうち移住者は5人いる。三井さんの動きに共感した後輩も東京の大学を卒業後、この土地に移住し、頼れる右腕として活動している。2014年5月には、結婚もした。広田町慈恩寺で結婚を祝う「おふるめぇ」が開かれ、100人の住民が集まった。
結婚してから翌年の5月、第1子となる女の子に恵まれた。そして、6月には、ウニの出荷が行える、JF広田湾の準組合員の資格を取得し、着実に地域に根付いて暮らしている。
市議選への立候補を打診されたのは、2015年1月のこと。元市役所職員の佐々木幸悦さんからの突然の相談だった。「三井、立候補してみないか。市議になれば影響力が出る。陸前高田を変える風になれる」と言われた。佐々木さんは、三井さんが一人で移住してからずっと気にかけてくれていた第二の親でもある。
東京での結婚式にも乾杯の音頭をしに駆けつけ、広田町での「おふるめぇ」も佐々木さんが住民に呼びかけた。
佐々木さんからを相談を受けて、半年は出馬を悩んだ。市議になると公人になるため、近所の人とこれまで通りの腹を割ったお付き合いができるのか、それに今は一人ではなく家族もいる。それでも、家族と話し合い、三井さんは6月、挑戦する覚悟を決めた。
佐々木さんは、「三井俊介新風隊」を結成し、隊長に就任した。陸前高田市の市議選は血縁がなによりも勝敗を分ける。そのため、血縁がない三井さんにとって、広田町生まれの佐々木さんは何よりの頼りだった。
しかし、これから市議選へ向けての活動が始まるという矢先、佐々木さんは脳梗塞で倒れてしまう。大事には至らなかったが、長期の入院を迫られた。三井さんは出馬を決めたものの、「本当に当選できるのだろうか」という不安が一気に強くなった。でも、そんな不安をかき消す出来事があった。
それは、佐々木さんのお見舞いに始めて行った日。ベッドで寝ている佐々木さんは三井さんの顔を見るなり、「三井、やめるなよ」と一言。この一言で三井さんの覚悟は強固なものへと変わったという。
佐々木さんは不在だが、三井さんが立ち上げたNPO法人SETのメンバーや学生団体の仲間たちに協力してもらい、7月の1カ月で、広田町にある1000世帯にチラシを配ってまわった。
三井さんが掲げるのは、3つある。1つは、「この町で暮らすことが今よりも、もっと豊かになること」、そして2つ目は、「その暮らしを外に発信し、住む人を増やすこと」。そして、3つ目は、「町のためになる多様な活動を作り、みんなでまちづくりを行えるようにすること」だ。この3つを、達成するために、対話を基点に取り組む。
「まちづくりは一人ではできない。多くの人を巻き込みながら、陸前高田に新しい風を起こしたい」と多くの人の思いを背負い意気込む。
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