濱中聡史(はまなか さとし)
アースデイ東京2011 事務局長
4月23日、24日に開催された「アースデイ東京2011」には2日間で10万人が集まったという。その大規模イベントの運営を率いていたのは、28歳の青年だった。20代でアースデイの運営トップを任された責任の重さ、そこから見えた周囲の人々の支えの大切さ。自身の経験から生み出されたリアルな「価値観」、そして、いまだから伝えたい若者たちへのメッセージを語ってもらった。(聞き手=オルタナS副編集長 高橋遼、編集員 塩野健介)
—どのようなきっかけで環境問題に興味を持ったのですか。
そもそもという意味では、小さい頃教えられてきたことの積み重ねだと思うんです。小学校とかで公害のことを勉強しますよね。木を守りましょうとか、環境を大事にしましょうなどを勉強していく中で、僕の場合は小さい頃から、木とか森とかっていうのはそもそも守らなければいけないものだと思って育ってきました。よく環境問題や社会問題に取り組んでいる人たちって何か衝撃的な体験を持っていたりする人が多いんですけど、実は僕はそれが特になくて、経験によって大きく転換した訳ではないんですよね。
—-確かに。学生時代の体験とか身近な衝撃的な体験から一気にアクションに移るような例をよく見聞きしますよね。
根本的な意識という意味で大きなドラマはなく、基本的に環境というものは『守るべきもの』みたいな良心から来ていると思うんです。「シムシティ」っていうゲームあるじゃないですか。マス目に自分の町を作っていくゲーム。小学校5年生のときに結構やっていたのですが、その頃から火力発電所を作るのが嫌で、もちろん原発を作るのが嫌で、公害が起きるのが嫌で、環境配慮型の町をどう作るかみたいなことをやっていたんですね。でも、ひたすら風力発電所と水力発電所を作るんですけど、マス目が無駄なんですよ。一マスあたりの発電量が少なかったりと非常に効率は悪いんですけど、ゲームの中でもとにかく公害は嫌でしたね。
—-その後、中学校や高校とその価値観は変わらなかったんですか。
僕は小学校から大学まで、東京・町田にある私立の和光学園に通っていました。そこは幼稚園から大学まであって、とても自由な校風の学校だったんです。制服もないし、校則もあってないようなものばかりで。本当に最低限のルールで、学生に主体性を持たせる学校でした。
高校2年生のとき、NPOやNGOといった市民団体にインタビューしに行く授業があって、そこで国際青年環境NGO A SEED JAPAN(アシードジャパン 以下略、ASJ)のごみゼロナビゲーションという活動のインタビューをしました。そのインタビューの帰り際に、プロジェクト責任者の羽仁カンタさんから、「フジロックフェスティバルっていうところでボランティア活動してるからキミ来てみないか」と誘って頂きました。その頃、フジロックの名前だけは知っていて、行けるものなら行ってみたいなと思ってはいたんですね。でも高校生にとっては完全に手が届かないイベントですから、環境対策のボランティアという形で行けるということだったので、すぐに申し込みをして参加しました。
—学校の外へ一歩踏み出した時の刺激は何かありましたか。
実は本格的なボランティア活動はそのときが初めてでした。もちろん活動自体は楽しかったし、フジロックの雰囲気も味わえて本当に楽しかったんですよね。そのような中、スタッフは大学生だとかが中心で、自分より上の世代の人が多かったんですが、同世代の高校生でもコアスタッフをしている人がいたんです。そのときに、僕も大学に入ったらこれをやろうと決めて、もっと継続的に主体的に関わっていきたいと思いました。それで、大学に進学して春にASJのコアスタッフのオリエンテーションに行き、そこから4年間活動を続けました。
—活動を始めたときはどんな苦労がありましたか?
もともとはボランティアの当日のコーディネートを担当していたので、お客さんに分別を誘導するやり方を教えたり、ボランティアを取りまとめることをしていました。途中から、リユース食器の導入に関わるセクションに移って、イベントに行って飲食の出店者さんに調整をしたりなど、対外的な調整にも徐々に携わっていくようになりましたね。始めの頃は、出店者さんのリストをもらって電話をしなきゃいけないんですけど、それが嫌で嫌でしょうがなかったです。何か文句言われたらどうしよう、とか、何て答えたらいいかわかんないし、けどなんか答えなきゃいけないし、じゃないとイベントでリユース食器できないし・・・みたいな感じで、とりあえず頭回ってなくて完全にビビってました。
—4年間活動を続けられましたが、卒業後の進路をどのように選択をしたのですか?
元々という意味ではあんまり会社に勤めるということ自体想像していなかったんですよね。自分がスーツ着て朝電車に乗って会社に勤めてっていうのは想像もできなくて、そうじゃないなとは思っていたんですね。でも、非常にモヤモヤしていていました。いまにして思えば色々な働き方があったのでしょうけど、学生の頃はそれがわからなくて、社会の仕組みもいまいちわかってませんでした。
—いまでこそ、NPOやNGOで働くという事も少しづつ浸透していますけど、以前は選択肢として大きく取り上げられていませんでしたよね。
学校でキャリアセンターに行けば、スーツ着てES書いて面接して、これが就職活動だよって教えられるだけだったので、それ以外の道はないのかということでモヤモヤしながら、大学3年生の後半過ごしていました。ただ僕のモヤモヤ期間はだいぶ短くて、ASJの羽仁さんから、大学卒業後うちで働きませんかと誘ってもらえたんです。その頃、パートタイムで従事していたので、卒業してフルタイムに階段を上るようなかたちですね。そのときに、この道に進もうという決断をしました。あまり悩みはしなかったと思います。もともと、さぁ就活するぞって姿勢から切り替えるというよりは、モヤモヤしている中で一本の道を見つけたような感じでしたね。
—そして「アースデイ東京2011」では事務局長という大役を務められたわけですが、どのようないきさつだったのですか?
卒業した後は、5年間ASJのスタッフとして勤めていました。アースデイには実行委員などで、毎年一歩踏み込んだ形では関わっていたんです。
アースデイ東京2010というのが、代々木公園で開催を始めてちょうど10周年だったんですが、そのとき開催前から2011をどのように作っていくのかという話し合いをしている場がありました。そこでは、次の段階という意味で、内部の体制を若い世代にシフトチェンジしましょうという動きがありました。一部では、アースデイが、環境とかエコという言葉を世間に広めたという実績や、NPOの活動も盛んになってきたことから、イベント自体終止符を打ってもいいのではという話もでていました。そのような中で、リーダーである事務局長の公募や、私自身も声をかけていただく機会があったのですが、その時は自分には無理だと思い、一度は断ったんですよ。
そして、いざアースデイ東京2010が終わり、本格的に2011年のアースデイを考えたときに、再度声をかけてもらいまして、2ヶ月くらい悩んでたんですけど、去年の11月ころにようやく結論を出して事務局長に就き、今に至るという感じですね。
—ご自身にとって大きな決断だと思うんですけど、決め手は何かあったんですか。
やはり、やりたいという気持ちでしょうかね。応援してくれて相談にのってくれる方もたくさんいたし、躊躇はしたけれど、根底ではやりたいと思っているんだから、じゃあやればいいじゃないか、という感じですね。
—実際に11月から事務局長なってみてどうでしたか。そこからアースデイ開催まで、事務局長を引き受ける決断をしたということについてどのように思いましたか。
幸いにも、僕が事務局長やりますって言ってから、応援してくれるって方々が本当に多かったですね、実行委員の方もそうですし。背中を押してくれる方々ばかりで、そのおかげでなんとかやって来れたというのが印象ですね。
—最後に、今将来への不安を感じ、「自分はどう変わればいいの」と悩んでいる若い世代へメッセージをいただけますか。
最近、その世代の人とよくしゃべったりするんですけど、僕自身アースデイ東京の事務局長になるとき自信がなくて悩んでいました。やっぱり、自信がない若者って多いのかなと思います。自信がないということを口に出す人もいますし、僕らの周りで市民活動に参加している若者でもそうなので、活動をしていない人たちはさらにそういう状況なのかなと。
自信って結局やらなきゃ身に付かないし、やってみなきゃわからないし、学生のうちに自信をつけるためには、動くしかないのかなと思います。人生いくらでも失敗していいよとも言いますけど、失敗はするならやっぱり若いうちの方が良いだろうと思います。そんな気持ちで学生には色々動いてほしいですね。
あまりおこがましいことは言いたくないんですけど、僕自身迷い迷ってアースデイの事務局長を引き受けて、失敗か成功かっていうのは難しいですけど、「踏み出せた」ってことは少なくとも良かったなと思っています。ですので、私も踏み出してみようかなって思う人が少しでもでてくれたら嬉しいですね。
■プロフィール
濱中聡史(はまなか さとし) アースデイ東京2011事務局長
1982年生まれ。高校生時代から環境活動に積極的に参加。国際青年環境NGO A SEED JAPAN。ごみゼロナビゲーションへの参画等、現在も幅広い分野での活動を行っている。■twitter