東日本大震災を後世に伝えることは大きく分けて2つの意味を持つ。一つは、防災啓発などにもなり社会的意義があるもの、そしてもう一つは、忘れたい記憶を喚起する何かであるというもの。震災に限らず、天災で起きた傷跡を後世に残す行為は、意義深いものであるが痛みを負うものでもある。ヒトはなぜ、痛みを負ってまでも伝えたいのだろうか。(オルタナS副編集長=池田真隆)
■もう、ぼくらのように傷つかないで
「東日本大震災を後世に残す」――2012年に創設されたNPO法人桜ライン311は、陸前高田市を襲った津波の最高到達点約170kmに17000本の桜を植える活動をしている。
現時点で、518本の桜が植えられており、今後約20年間をかけて17000本の「桜ライン」を完成させる予定だ。同団体のメンバーは陸前高田市民を中心に構成されており、メンバーが市内を周り、桜を植える土地所有者と交渉する。
同団体の岡本翔馬代表(30)は桜に込めた思いを、「次の世代の子どもたちには、津波で、ぼくらみたいな傷を負わないでほしい。高台に逃げれば津波は回避できるもの」と話す。東日本大震災の津波被害により、同市では死者1735人、全壊・半壊も合わせて被害戸数は3368戸に及んだ。
「陸前高田市には100年に3回ほど津波が来ているが、常に防災意識を持っていれば防ぐことができる」(岡本代表)
活動の意義は桜を植えることだけではない。主に動いているメンバーが地元民という点も意義のあることと言う。岡本代表は、震災以降、県外出身者で構成された支援団体に助けられてきて、地元民たちが立ち上がる機会が少ないことに課題を感じていた。
桜ライン311は、もともと2011年10月、「津波被害を後世に伝えたい」との思いのもと同市に住む有志数十人が集まってできた団体である。震災を機に務めていた東京のデザイン事務所を辞めて、陸前高田に戻ってきた岡本代表も地元民の盛り上がりに期待を感じた。「後世に伝えることを、地元民が主体となって動くからこそ意味が増す」と話す。
■奇跡の1本松は、希望か恐怖か
震災を残すことに葛藤を感じた一人に、フォトジャーナリストの安田菜津紀さんもいる。
「震災当初は人命救助が最優先で、写真を撮れる環境ではなかった。しかし、一枚だけ撮った写真がある。そして、その写真が写真家として大切なことを私に教えてくれた」と振り返る。
震災当初、現地では人命救助と次々に来るボランティアの受け入れ体制構築を最優先に手伝わなくてはならず、写真を撮れる環境ではなかったという。
しかし、そんな中でも一枚だけ撮った写真がある。それが高田松原に残った1本松の写真だ。世間では「ド根性松」や「希望の松」という愛称で広まった7万本の松林で津波に耐えた唯一の松である。
後にこの写真は安田さんのコメント付きで産経新聞に大きく取り上げられた。しかし、安田さんがこの新聞を現地の人に見せに行ったとき、こう言われた。
「なんであんなところに行ったのか。津波が来たらどうするんだと言ったのに」。普段穏やかなその人が、新聞を見た瞬間に声を荒げた。
その男性は津波で妻を亡くしていた。妻が見つかったときには首から下は埋まっていたそうだ。この写真によって、その人の脳裏に3月11日の記憶がくっきりとよみがえってしまったのである。
そして、その人はこう続けた。「前の姿を知らない人からすれば、この1本松は希望の象徴に見えるかもしれない。でも、7万本もあった前の姿を知っている人からすれば津波の威力を証明する以外の何物でもない」。
その時に安田さんは、「自分は一体何の為に写真を撮り、誰のための立場に立って、何の為の希望を見つけようとしていたのか、考えさせられた」と振り返る。
その悩みを克服したのはそれから数日後の2011年4月21日だった。この日、小中学生の入学式が開催された。しかし、人手不足で入学式の記念撮影を撮る写真家が見つからなかった。
安田さんは写真家の先輩にお願いして、陸前高田市内の6校にそれぞれ写真家を手配した。安田さんは気仙小学校を担当することになった。気仙小学校は、震災時に近所の大人たちが避難をしに集まった場所だった。
しかし、津波が運悪く気仙小学校にぶつかり、そこにいた大人たちは流されてしまった。小学校より高台にある裏山に避難していた児童たちは、助けることもできず、親たちが流されてしまうのをただ見ていることしかできなかった。
入学式は全壊している気仙小学校の代わりに、近くにある長部小学校の図書館を借りて行われた。毎年10人ほどの新入生がいるが、2011年は2人だけだった。
大人は子どもたちを気遣い、子どもたちも大人たちを気遣って生まれた支え合いの集大成のその場所に二人の男の子が入場した。その時にPTA代表が思いを込めて、こう伝えた。
「二人の命はここにいるみんなにとっての宝物です。だから、6年間これだけは約束して欲しい。みんなの宝物であるその命を一生懸命磨き続けてほしい」
安田さんは震災当初には考えられないくらい、シャッターを切ることに躊躇しない自分がいたと語る。その空間を1秒でも無駄にしてはいけないと感じたという。
最後の集合写真を撮るとき、ある先生は「入学式を諦めていたのに」と一人泣いていた。この入学式の撮影ほど「残すための写真」を意識することはなかったと語る。伝えるための写真も、いつかは残すための写真になるのだと感じたのだ。