あの日から3年。津波で家族を失った人たちは今、何を思い、復興をどうとらえているのか。電飾で彩られ、昼夜を通して若者が行き交う渋谷の街で、未来について語り合うイベントが開催された。(オルタナS副編集長=池田 真隆)

左から、後藤正文氏、安田菜津紀氏、佐藤慧氏、渋谷敦志氏、上野敬幸氏。写真展とトークショーには述べ3500人が来場した

5月11日、東京渋谷のタワーレコード渋谷店のライブ会場で、トーク&ライブが開催された。主催したのは、ASIAN KUNG-FU GENERATION(アジアン・カンフー・ジェネレーション)のフロントマンである後藤正文氏が編集長として発行している新聞(無料で配布)「The Future Times(ザ・フューチャー・タイムズ)」だ。

同店で「3年後の現在地」をテーマに被災地の今を伝える写真展を4月29日から開催した。写真展期間中、後藤氏が中心となって、写真を展示したフォトジャーナリストの渋谷敦志氏、佐藤慧氏、安田菜津紀氏とトークする機会も設けた。その最終回には、福島県南相馬市からゲストを迎え、5人でトークが行われた。

そのゲストとは、南相馬市原町の萱浜(かいはま)地区に住む上野敬幸さん。上野さんは、津波で両親と二人の子どもを奪われた。原発事故の影響で、自衛隊や警察の救援はなく、自ら地区の行方不明者を捜索することを余儀なくされた。8歳の娘も自ら見つけ出した。父と3歳の息子はまだ見つかっていない。

「震災後すぐは、被災した地域に写真を撮りにくる人は全部敵に見えた」と語る上野さんが、なぜ今回トークにやって来たのか。それは渋谷氏との出会いがきっかけだ。震災から3週間ほどたった頃、渋谷氏は行方不明者を捜索する上野さんと萱浜で出会った。偶然の出会いではあったが、萱浜に残っていたのは上野さんらごく一部の地元の人たちだけで、そこを訪れる人たちも限られる状況で、会うべくして会ったといえなくもない。

渋谷氏は、上野さんを初めて見たときの印象を「怖かった。カメラを向ける勇気はなかった」と振り返る。それでも、渋谷氏が頻繁に上野さんのもとを訪れることで、少しずつ信頼関係ができていった。そして渋谷氏が、上野さんにどうしても会ってほしいと考えたのが後藤氏だった。後藤氏が作る「ザ・フューチャー・タイムズ」で上野さんのストーリーを書くためだった。

上野さんの自宅は10数メートルもの津波に襲われたが、奇跡的に原型を留めて残った。骨組だけとなった一階部分を補修して作った部屋を、後藤氏は訪れた。そこには4月から幼稚園に通うはずだった3歳の長男の遺品が大切に保管されていた。「あの時は取材に来たのに、一言、二言しか話せなかった」と後藤氏は言う。歌う機会があるかもしれないとギターを持参していたが、その時はギターを手にすることなく、帰路についたのだった。

■「どうして、萱浜に住むのか」

行方不明の家族を見つけ出し、故郷を再生させようと孤軍奮闘する上野さんを支えようと、各地からボランティアが集まるようになった。「壊滅的な被害を受けた地元の人に、笑顔を取り戻したい」と、上野さんが中心となって福興浜団という団体を立ち上げた。上野さんと同じように大切な人の帰りを待つ家族を一人でも減らすため、活動は原発から20キロメートル圏内でも行われた。原発事故直後に立ち入り制限されたまま、十分な捜索がなされなかったからだ。

8月のお盆前には、帰らぬ人たちの鎮魂と被災地の復興を願い、萱浜で花火大会を開いている。2013年には後藤氏も参加し、上野さんのリクエストに応えて歌を歌った。「花火一発一発に込めた思いが伝わってきて、本当にすばらしかった」と後藤氏は語る。

震災後、数えきれないほど東北を訪れている安田氏は、「故郷について、これほどまでに考えさせられる機会はなかった」と言う。安田氏は上野さんに「あれほどの被害を受けた萱浜に戻るのはどうしてか?」と率直に質問した。上野さんは「また家族全員で元の場所に戻ることは自分にとって当たり前のことだった」と返した。

上野さんは津波で被災した家の隣に新しい家を建てた。近所のお寺に預けていた遺骨をようやく引き取り、両親と娘と息子、そして震災後新たに誕生した次女の7人がようやく揃った。「やっと、みんなで同じ屋根の下で暮らすことができた」と上野さんは話す。安田氏が「(次女は)どんな人に育ってほしいか」と聞くと、「五体満足で生まれてきてくれたので、おばあちゃんになるまで寿命を全うしてくれたらそれでいい。ほかに望むことはない」と答えた。

■「復興・風化」のスピードに違和感

津波によって母を失った佐藤氏は、進む「復興」の違和感にも言及した。瓦礫の下に眠っていた母との再会を果たしたのは震災から一カ月後のことだった。「一ヵ月という時間は途方もなく長く思えた、でも実は今でも、愛する人のご遺体、ご遺骨を見つけることもできない人々が沢山いる。確かに瓦礫は片付き、見た目には傷跡もどんどん消えていく。商店や家々が戻りつつある地域もある。けれど、そういった物理的な街の再生の速度と、人々の心が負った傷を受け入れていく速度は必ずしも一致しない。写真を通じて、目の前にいる人間の感情をリアルなものとして感じてもらうことで、「被災者」や「復興」という、大きな言葉や数字などの影に埋もれがちな大切なものを考えるきっかけとしてほしい」と語った。

この意見に、後藤氏も続く。「復興のスピードと風化するスピードに、違和感を感じている。本当に僕たちの社会はそれでいいのかと問いたい」。自身が発行する新聞も、「定期的に人を追いかけ、何年もかけて考え続けること」を大切にするという。

安田氏は、写真は「未来への手紙のようなもの」だと言う。「震災当初はそこで写真を撮るということに意味を見出せなかった。でも、写真として記録され、人々に届くことで、これから先、同じような災害による被害を繰り返さないで欲しいというメッセージにもなるのでは」と語った。

■震災後の出会いは「一生モノ」

震災から3年と2カ月が経過して、上野さんは「人を信用できるようになった」と変化を話す。「みんなが来てくれたことで、少しずつ元気になって、少しずつ笑えるようになった」。震災後の出会いの中には、「一生モノ」と感じるものも多い。「出会ってくれた人に、ありがとうと言いたい気持ちが日に日に強くなっている」と締めくくった。

今年の8月(9日か10日のどちらかで調整中)も、萱浜で花火大会が開かれる。まだ一度も津波被災地を訪れたことがない人は、花火を見に行ってみるのもいい。上野さんの「わらいあえるところにします」という思いに触れ、「復興」とは何かを自分なりに考えてみてはいかがだろうか。

The Future Times