前回の記事で、栗生楽泉園の重監房について紹介をした。今回は、楽泉園の入所者自治会の会長を務める、藤田三四郎さん(88)の話を紹介する。「差別や偏見をなくすために、種を蒔いて欲しい」と語る藤田さん。若い頃の経験や、若い世代へのメッセージを聞いた。(中嶋泰郁・早稲田大学教育学部社会科社会科学専修3年)
藤田三四郎さんは、1926年2月22日に茨城県で生まれた。現在、88才。1945年に入所してから、70年が経つ。現在は、栗生楽泉園入所者自治会会長だ。
入所者自治会は、職員の業務をチェックしたり、入所者の地位向上のために作られた組織だった。入所数年後から、自治会の役員として活動してきた。戦後1953年に改正される、らい予防法は、強制隔離政策が維持されたままのものであった。
藤田さんは、改正への反対運動に参加し、国会議事堂裏での7日間の座り込みを実施。その後も、1996年のらい予防法の廃止まで活動を続ける。らい予防法廃止後は、国の加害責任の明確化と人権回復を求めるハンセン病違憲国家賠償訴訟に参加し続けてきた。
藤田さんは、自分が療養所に連れられてきた時のことを決して忘れはしない。14才の時に、志願して陸軍少年航空兵となった。19歳の時に、陸軍病院で、軍医に「伝染病」と診断をされる。
病名を告げられぬまま、突然伝染病棟に移動させられた。個室の狭い部屋の中に入れられて、「ここで大も小もその中でやんなさい」と冷たく扱われた。その後、着の身のまま、何処か知らぬ所へ移送させられることになった。トラックから降りると、自分の歩いた跡を衛生兵が消毒しはじめていたという。
列車の車両に乗り換える際に、自分の乗る最後尾の車両に「癩(らい)患者護送中」と書かれているのを見た。自身がハンセン病を患ったのだと気付いた瞬間だった。その後、電車の移動の際には、乗車拒否にもあった。草津の駅に難あって辿り着いたが、自分を送ってくれた衛生兵には置いてけぼりにされてしまった。栗生楽泉園への4キロメートルの道を歩いた。
昭和21年に結婚をした。入所してまもなく、20才の時だ。こんなに早く結婚した理由については、「30になると死ぬからと思って」と語った。
奥さんとは結婚して以来、58年間を共に過ごした。結婚が許された療養所というのは、あまり多くない。沖縄愛楽園では男女が完全に分離されていた。結婚が許されていたのは、献身的だったとされる英国人ウォンコール・リー女史のおかげであった。
結婚は許されても、子どもを授かるのは決して許されなかった。ハンセン病療養所では、成人男性に対して、「パイプカット」が行われていた。
輸精管を切除し、子どもが作れないようにする手術だ。戦前の国民優生法の元から、断種や出産制限といった優生政策が行われた。断種とは、文字通り種を絶やすこと。ハンセン病は遺伝病ではなく、子どもに伝染るものではない。また、ハンセン病は、本来この法の対象外であった。非合法的に行われた断種は、戦後までも続いていた。
「頑張ったけどダメだった」と藤田さんはつぶやいた。パイプカットされるのを防ごうと、抵抗や抗議をした。理不尽に感じられるのは、栗生楽泉園には保育所があった点だ。たしかに子供が生まれたら育てられる環境はあった。
だが子どもを作るのは許されなかった。楽泉園には、「生まれてしまい」堕胎させられた26名の子供がいた。納骨堂の横には、彼らのための供養碑が建てられている。
「私にとっては、毎日毎日生かされていることが最高の喜び」だと彼は語った。現在は、列車にも飛行機にも普通に乗れ、いい時代になったという。だが、ハンセン病への偏見や差別が完全になくなったわけではない。
ハンセン病はもう治る病気になったのが依然として知られていない時もある。厚労省から中学生への教材用資料が配られているはずだが活用されていないのには、問題を感じている。
また、元患者の高齢化が進んでいる。13箇所の療養所に、1770人いるのみだ。現在は介護が必要になっている人も多い。職員の低減削減に対しても、きちんと対策していく必要性を述べていた。
最後に、藤田さんから頂いたメッセージを紹介する。
「ハンセン病は、今から50数年前にプロミンという新薬によって、全ての患者が治るようになりました。伝染病でも遺伝病でもありません。もし発病しても何の障害もなく治る病気です。偏見差別の問題について種を蒔いて欲しい。ハンセン病だけでなく、人権差別の問題はみなさん1人1人の心の中に残っております。己を愛するように10分の1でも他人を愛して欲しい。そのことによって日本は平和にいくんじゃなかろうかと思います。昨年4月には重監房資料館がオープンしました。原型そのものの姿で本物ですので、これを見ていただければ、当時の状況がわかるんじゃないかと思います」