今回のテーマは「被災地にあって東京にはないものとは」
そのために今回は東京に住んでいて、被災地に復興活動をしに行った学生を選んだ。また、被災地を様々な地域と比べてもらいたかったので、海外への旅や日本一周を経験したことがあるという事も学生を選ぶ判断軸にした。
多くの地域を見てきたからこそ感じる思いが詰まった今回の座談会。学生たちの未来への思いに耳を傾けてほしい。
※語り手
※三井俊介 1988/12/23 法政大学4年 学生団体WorldFut共同創設者 学生非営利組織SET共同発起人 個人blog:生まれゆく光の中で twitter@shusuke_1223
※武士雄飛 1988/10/18 日本大学芸術学部4年 種まき団体FURUSATO代表 個人blog:FURUSATOにっき twitter:@takeshiyuhi
※上地成就 1987/5/17 東京工業大学大学院M1 Campus Climate Challenge twitter:@JoujuUechi
聞き手
※池田真隆 オルタナS編集員
助けに行こうと思っていたのに、気づいたら助けてもらってる
━現地ではどのような活動をしてきたのですか。
三井 俺は4月6日から19日まで陸前高田の広田地区に入りました。現状調査や津波の被害状況を調べた広田地区限定の調査地図を作りました。また子供たちの学校が始まるまで一緒に遊んだり、勉強を教えたり教育支援のお手伝い、この震災の復興記録をつけるためにインタビューや写真を撮ったり、物資を運ぶことをやりました。また5月2日から5日までまた陸前高田の広田地区に入り、主に避難所のかたのマッサージなどをして交流して来ました。
上地 ぼくは友人6人とゴールデンウィークを使って4泊5日で宮城県の蔵王に行きました。知人に紹介していただいた人がそこで宿を運営していまして、そこがボランティアのかたに安く提供していたので、そこで寝泊りしました。その宿から各自治体のボランティアセンターに電話したんですが、ほとんどのボランティアセンターが県外受け入れをしていなく、また受け入れ人数が少なく、やっと見つけたのが山本町でした。山本町のボランティアセンターを通してイチゴ畑の泥かきや民家のお掃除、ブロック塀の撤去をやりました。
武士 おれは地震が起きたときネパールにいて、日本の現状を思ったらいてもたってもいられなくなって、すぐに帰国しました。4月の頭にいざ被災地に行こうと思ったんだけど、行って迷惑は絶対かけたくなかったので寝袋や食料を持参して、ガソリンも使いたくなかったので自転車で向かいました。茨城からいわきに入って、南相馬に行きました。やったことはボランティアの方のお手伝いや、避難所の方が入るお風呂の管理をしたりしました。期間は10日間です。
━現地に行って気づいたこと何ですか。
三井 おれはブラジルに二ヶ月いたんだけど、そのときは地域コミュニティのつながりが強くて毎週土日は地域の人たちが集まってなにかしらパーティーを開いてた。いろんな世代が集まってわいわい楽しくやってて、それが広田にもあった。おれらが飲み会を開かせてもらったときは、下はおれら大学生がいて、上は60歳のかたまで集まってくれた。世代は違ってもみんな仲良くて広田の人たちのあたたかさを感じたな。
武士 地域の人たちのあたたかさを感じたことはおれもあって、茨城からいわきへ向かう途中、夜道自転車を走らせていたんだけど、見事に道路に地割れで空いている穴に突っ込んでしまって、大転倒した。雨の降っているなか、泥だらけの服で壊れた自転車を押して、なんとかコンビニまで行った。そこで雨宿りをしながらtwitterで転んだことを書いたら、いわきの多くの人たちからリプライを頂いた。あるおじさんは雨の中駆けつけてくれて、「大丈夫か?これ持ってけ!あそこに行けば泊まれるぞ!」なんて言ってくれてお金までくれた。はじめ被災地に行くときは絶対に迷惑はかけないと決意していたのに、結局気づいたら完全に助けられてた。
上地 うん。助けに行こうと思っていたら、逆に何かをしてもらっているということはよく聞くよね。ぼくもボランティアで来ているのに、現地の人たちからご飯を振舞ってもらった。あと、現地に行って感じたのは世間ではボランティアって言うとイメージ的にどこか敷居が高く感じてしまうかもしれないけど、実際そんな身構える必要はないと思う。むしろ隣で困っている人を助けるような感覚で捉えたほうがいいと思う。
武士 避難所には何かしら悲しみを持たれた方が集まっているのに、こんなおれにも気を使ってくれた。おれも今回行って本当に優しさは感じた。おれは性格的に情で動くタイプだから現地にいるかたと仲良くなってしまったらこれから先もなによりも優先して助けに行くことになると思った。でも、おれはまだ学生だし、今回は1週間だけだったからそこまで深く現地のかたとは関わりをあえてもたなかった。だからおれはボランティアの方の手助けをしようと思った。今後も被災地にはそのような関係で関わっていくつもり。
━「私のこと・・・忘れないでね。」
三井 おれは避難所での思い出に残っていることで伝えたいことがあるんだけど、ある90歳のおばあさんのお話しなんだ。そのおばあさんはガンで目が見えない。震災の時は家に居て津波が来ることも予想できていた。けど、避難しなかった。もう自分はここで死のうと思ったんだ。自分がこのまま生きても介護されて迷惑をかけるだけだと言い聞かせてじっと家に残っていた。でもふとわれに返ってここで死ぬと娘に迷惑をかけてしまうんじゃないのかと思い、外に出て、向かいの人に頼んで避難させてもらった。それでおれが5月2日に避難所でそのおばあさんとお話ししてマッサージしたとき、「ありがとう。今まで生きる希望がわかなかったけど、きみたちみたいな若者が来てくれて、こんな私の話しを聞いてくれて初めて生きる希望がわいたよ」って言ってくれたんだ。そして「最後にこれだけは言わせてちょうだい。こんなおばさんがいたことを忘れないでね。」
それを聞いたとき、おれらはまだ若くて専門性もないから、避難所の方の力にはなれない、と決め付けるんじゃなくて、おれらだって話しはできて、悩みを聞いてあげることならできる。しっかり避難所のかたと向かいあう覚悟があれば若いってことが強さになるんだと思う。
上地 ぼくも行って現地の人たちから泣きながら感謝された。それでそのとき気づいたんだけど。ぼくは今まで組織と組織を結びつけることで間接的に人に何かしてあげてたけど、今回は直接人に何かをしてあげた。なんというかそれのお返しの感謝の言葉は胸に響いたな。
三井 純粋にその人の喜びのために何かをしてあげる。そういう原始的なコミュニケーションが向こうにはあるんだろうね。
上地 本来人と人のコミュニケーションはそういうものだったんだよね。でも、今は文明も発展してシステムに依存し過ぎて、システムを介して人とつながるのが大半になっている。主体性と主体性のコミュニケーションを忘れてはいけないんだよね。
(2へつづく)