被災地を訪問した人からよく聞く言葉がある。

「助けに行くつもりが、逆に大切なことを教わった」である。写真家で情熱大陸にも出演したことのある安田菜津紀さんもその一人だ。

「震災当初は人命救助が最優先で、写真を撮れる環境ではなかった。しかし、一枚だけ撮った写真がある。そして、その写真が写真家として大切なことを私に教えてくれた」と語る。

震災当初、現地では人命救助と次々に来るボランティアの受け入れ体制構築を最優先に手伝わなくてはならず、写真を撮れる環境ではなかったという。

しかし、そんな中でも一枚だけ撮った写真がある。それが高田松原に残った1本松の写真だ。世間では「ド根性松」や「希望の松」という愛称で広まった7万本の松林で津波に耐えた唯一の松である。

後にこの写真は安田さんのコメント付きで産経新聞に大きく取り上げられた。しかし、安田さんがこの新聞を現地の人に見せに行ったとき、こう言われた。

「なんであんなところに行ったのか。津波が来たらどうするんだと言ったのに」。普段穏やかなその人が、新聞を見た瞬間に声を荒げた。

その男性は津波で妻を亡くしていた。妻が見つかったときには首から下は埋まっていたそうだ。この写真によって、その人の脳裏に3月11日の記憶がくっきりとよみがえってしまったのである。

そして、その人はこう続けた。「前の姿を知らない人からすれば、この1本松は希望の象徴に見えるかもしれない。でも、7万本もあった前の姿を知っている人からすれば津波の威力を証明する以外の何物でもない」。

津波に耐えた高田松原の一本松 写真提供:安田菜津紀


その時に安田さんは、「自分は一体何の為に写真を撮り、誰のための立場に立って、何の為の希望を見つけようとしていたのか、考えさせられた」と振り返る。

その悩みを克服したのはそれから数日後の4月21日だった。

この日に被災地では小中学生の入学式が開催された。しかし、人手不足で入学式の記念撮影を撮る写真家が見つからなかった。

安田さんは写真家の先輩にお願いして、陸前高田市内の6校にそれぞれ写真家を手配した。安田さんは気仙小学校を担当することになった。気仙小学校は、震災時に近所の大人たちが避難をしに集まった場所だった。しかし、津波が運悪く気仙小学校にぶつかり、そこにいた大人たちは流されてしまった。小学校より高台にある裏山に避難していた児童たちは、助けることもできず、親たちが流されてしまうのを見ていることしかできなかった。

入学式は全壊している気仙小学校の代わりに、近くにある長部小学校の図書館を借りて行われた。毎年10人ほどの新入生がいるが、2011年は2人だけだった。

大人は子どもたちを気遣い、子どもたちも大人たちを気遣って生まれた支え合いの集大成のその場所に二人の男の子が入場した。その時にPTA代表が思いを込めて、こう伝えた。

「二人の命はここにいるみんなにとっての宝物です。だから、6年間これだけは約束して欲しい。みんなの宝物であるその命を6年間磨き続けて欲しい」

安田さんは震災当初には考えられないくらい、シャッターを切ることに躊躇しない自分がいたと語る。その空間を1秒でも無駄にしてはいけないと感じたという。

最後の集合写真を撮るとき、ある先生は「入学式を諦めていたのに」と一人泣いていた。
この入学式の撮影ほど「残すための写真」を意識することはなかったと語る。伝えるための写真も、いつかは残すための写真になるのだと感じたのだ。

新入生二人を収めた写真から、安田さんは写真を通してどうこの街に貢献していくか考えるようになったと言う。これがきっかけで、被災地で子ども向けの写真教室や、泥やヘドロで汚れてしまった大切な写真をキレイにする写真洗浄を精力的に行ってきた。今でも足繁く被災地を訪問して、回数は数えきれないと言う。

震災から早くも一年が過ぎようとしている。今でも過酷な状況は続いているが、気仙小学校では大切な宝物たちが今日もしっかりと生きている。(オルタナS副編集長=池田真隆)


安田菜津紀

studio AFTERMODE 所属 フォトジャーナリスト
2003年8月、「国境なき子どもたち」の友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材。守るものがあることの強さを知り、彼らの姿を伝えようと決意。2006年、写真と出会ったことを機に、カンボジアを中心に各地の取材を始める。現在、東南アジアの貧困問題や、中東の難民問題などを中心に取材を進める。 2008年7月、青年版国民栄誉賞「人間力大賞」会頭特別賞を受賞。共著に『アジア×カメラ 「正解」のない旅へ』上智大学卒。オフィシャルサイト
「ファインダー越しの3.11」(原書房)安田菜津紀/佐藤慧/渋谷敦志