「まだまだ復興は終わらない。マスコミもボランティアも時間が経つごとに減っていった。兄ちゃん、この現状を何とかして伝えてほしい」--。2011年6月、世界最大の化学メーカーBASFに勤めていた野田祐機さん(31)はボランティア先の岩手県陸前高田市で、こう訴えかけられた。この言葉が、会社で出世コースに乗っていた野田さんに社団法人の代表就任を決心させた。野田さんが率いる復興支援情報サイトは、いまや日本最大規模に成長した。(オルタナS副編集長=池田真隆)

助けあいジャパンの野田代表

陸前高田市では、クリーニング屋を営んでいた60代の男性と出会った。津波で、家もクリーニング屋も流されてしまったその男性は、仮設住宅に住むことを拒み、かつて家があった場所にテントを張って暮らしていた。

野田さんは、なぜ仮設住宅に移らないのか不思議に思った。夏前の暑い時期にテント暮らしは高齢者にとって体力的に厳しい。仮設住宅に移らない理由を尋ねると、「育った地域から離れたくないからだ」と返事をもらった。

その男性は、「自分が育った場所がなくなるということを想像したことはあるか。まだまだ復興は終わらないが、マスコミもボランティアも時間が経つごとに減っていった。兄ちゃん、この現状を何とかして伝えてほしい」と訴えた。

この男性からの「伝えてほしい」という言葉を聞き、伝えることの大切さを改めて実感した。東京に戻り、仕事のこと、人生のことを考え出した。当時は、務めていた世界最大の化学メーカーBASFで出世コースである香港行きが決まっていたこともあるが、日本に留まり考えた。「これから先の人生を世界で働くことにチャレンジするのか、それとも日本のためにチャレンジするのか」。

その頃、助けあいジャパンには、ボランティアとしてかかわっていたが、創設者の佐藤尚之氏らから代表就任への打診を受けていた。悩みぬいた末に出した答えは、復興支援に立ち向かうことだだった。前職と比べると働く環境などは変わったが、「満足した人生を生きている」と話す。「東北を見て、人の生と死は紙一重だと思った。いつ災害が起きるか分からない世の中では、明日死ぬことになるもしれない。だったら、明日死んでも満足できる仕事をしたいと思った。復興に立ち向かえる仕事ができていることに幸せを感じている」と述べる。

同団体では、復興庁やNPOなどと連携して復興支援情報を伝えていることに加えて、現地での雇用創出にも取り組んでいる。昨年8月には、福島県の受託を受け18人を現地雇用し、今年3月には、岩手県からの受託を受け、現地で11人を雇用した。

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