東北の太平洋岸にあたる三陸地方の仮設住宅にプランターが配布されている。住民たちは、そのプランターで、無肥料・無農薬で野菜を育て、収入を得る。食を通して、社会とのつながりを生み出す仕組みをつくっているのは、気仙沼で育った20代の男兄弟だ。(オルタナS副編集長=池田 真隆)

プランター事業の説明会に参加した住民たちと、三陸野菜の畠山享代表(写真後列右端)と卓事務局長(前列右端)

畠山享さん(29・慶應義塾大学大学院理工学研究科博士課程4年)は2014年3月、弟の卓さん(26)と一般社団法人三陸野菜(宮城・気仙沼市)を設立した。カタールフレンド基金から支援を受け、気仙沼市や南三陸町、陸前高田市など三陸地方の仮設住宅に住む人々にプランターを無料で配布している。

説明会を近隣の学校で開き、これまでに500の仮設住宅に配布した。受け取った住民たちは野菜を栽培し、自家消費する分以外を三陸野菜が買い取り、加工・販売する仕組みだ。インターネットでのECサイトで販売する以外にも、地元スーパーや企業の社員食堂にも販路を増やす。

スーパーとは現在交渉中だが、大手繊維メーカーの社員食堂に買い取ってもらえることがすでに決まっている。栽培しているのは、トマトだが、特徴的なのは、無肥料・無農薬での自然栽培に取り組んでいる点だ。

自然栽培とは、著書『奇跡のりんご』(幻冬舎文庫)で知られる木村秋則氏が提唱したものだ。弟の卓さんは、その栽培方法を習い、仮設住宅の住民に教えている。環境にも良いが、有機よりも腐りにくいので、保存期間が長持ちする点も利点の一つだ。

さらに、プランターにもこだわった。地元・南三陸杉の間伐材を使っている。この杉に、ドイツ製の自然塗料を塗り、杉の呼吸を妨げることなく保護している。プランターで栽培したトマトの収穫時期は夏以降で、そこから一般販売が始まる予定だ。

■畑仕事を通した地域活性化

三陸野菜が行う事業はプランターでの自然栽培だけではない。住民たちで田植えをできるように、耕作放棄地を開墾している。畠山兄弟の生まれ故郷である気仙沼市階上(はしかみ)地区にある畑の土壌づくりを行っている最中だ。

開墾中の耕作放棄地

畑は、まだ被災物が残っており、津波の影響で塩害の被害も受けている。実際に耕せるのは来年からになるという。享さんが目指すのは、畑仕事を通した地域活性化だ。「昔は、畑が子どもの公園であり、住民の集会場であった。耕すおじいちゃん、おばあちゃんの後を追っかける子どもの姿があり、畑で近所の人と交流していた」と話す。

三陸地方の就農者の平均年齢は66歳だ。10年前には、約400万人いたが現在はそのうちの3割が辞め、270万人ほどに減った。

今後、被災地では津波浸水地域や瓦礫仮置き場などに使用されている農地の復旧が進んでいく。だが、就農者の高齢化や後継者不足の理由で、これらの土地も耕作放棄地となる可能性が危惧されている。

後継者不足と耕作放棄地の問題に加えて、食の安全に対する懸念も配慮する。遺伝子組み換え食品や残留農薬基準値などの懸念により、食の安全に対する国民の意識が高まってきている。現在開墾中の耕作放棄地でも自然栽培を取り入れる考えだ。

■「もう一度、風景を取り戻したい」

2011年3月11日から3年が経過した。震災が起こったとき、享さんは大学の休暇を利用して、気仙沼の実家に戻っていた。ゆれと津波の被害を受けたが、運よく大きな怪我はなかった。

震災発生から2週間は、ボランティアとして動いた。避難所となっていた階上中学校には2000人ほどが集まり、体育館から教室まですべての部屋が人で埋まった。享さんは主に食事づくりと支給されてくる赤ちゃん用のオムツなどの物資の仕分け作業を手伝った。

3月下旬には一時期、東京に戻ったが、すぐにまた気仙沼に帰り、引き続き避難所で働いた。人手不足のなか、給食・配膳、物資受取・配給、イベント企画などさまざまな取り組みを行った。

大学院に復帰しても、月に2-3回は気仙沼に戻った。東京で復興支援活動を行いやすくするために任意団体も立ち上げた。このように震災当時は休む間もなく動いていたが、享さんは、「(当時のことを)よく覚えていない」と振り返る。

住民たちへプランターの説明をする弟の卓さん

3年が経つが、突然急激に落ち込んだり、マイナスに考えてしまう日があるという。それでも、畑で故郷の復興に挑む。「気仙沼住民にとって畑は、作物を栽培するだけの場所ではない。作ることがいきがいであり、地域住民と会話できる大切な場所だった。もう一度、その風景を取り戻したい」と前を向く。

一般社団法人 三陸野菜