島根県津和野町と、岡山県和気町でまちづくりの活動に取り組むFoundingBase(ファウンディングベース)。この取り組みの面白さは、都市部の若者が地方に移住し、その地方のいち住民となり、地元の人々と協力しながら、地道に一歩一歩、取り組みを進めているところだ。この取り組みに参加する若者たちは「ある」もの尽くしの東京から、「ない」ものだらけの津和野町や、和気町に移り住む。彼らは、何故、地方を選んだのだろうか。今回は、慶應SFCを休学して4月から津和野に移り住み、観光分野で新規事業を立ち上げようとしている島袋太輔さんに話を伺った。(聞き手・福井 健)

取材を受ける島袋さん

津和野町で伝統芸能鷺舞に参加する島袋さん

■沖縄生まれ、徐々に芽生えた地元への愛着

――まず、小さい頃からこれまで、FoundingBaseに参加するまで、どんな人だったかを教えてもらえますか。

島袋:自分は、沖縄で生まれました。姉ちゃんと二人兄弟で、母子家庭だったこともあり、おばあちゃんに育ててもらいました。小さい頃は、思い切った決断を自分からするようなタイプではなくて、いつも姉ちゃんの後ろに付いて行っているような、あんまり目立たないタイプ。知らない環境に飛び込むことが苦手で、新しい環境や、初めて出会う人は苦手でしたね。

――え!それなのに、FoundingBaseに?津和野は、新しい土地だし、初めて出会う人ばかりですよね。

島袋:ずっといままでそうだったわけじゃないですよ。中学校の頃の話です。高校に入ってから、アメリカに短期留学するプログラムに友達と参加したりして、徐々にそういった意識は薄れていきました。

アメリカでの経験がすごく楽しくて、それまで避けてた課外活動とかにもっと参加してみようって思ったんです。それで、高校にあった地域政策研究部っていう部活に入って活動していました。

――それって、どんな部活なのですか。初めて聞いたのですが。

島袋:沖縄の伝統芸能について学んだり、地域の課題について考えたりする部活だったんですよ。と言っても、そんなに真面目で、難しいことじゃなくて、実際やってたことって、地域の伝統芸能の「エイサー」や「うずんびーら」を練習をしたりしてました。

端的に言うと伝統芸能の継承活動ですね。その中で地元のおじいちゃんやおばあちゃんがいる集会所へ行って、地元の人たちとの交流してました。おばあちゃん子だったって言うのもあるのか、それがとても楽しく感じて。

それまで「沖縄なんて田舎だからつまんねぇな」って笑。県外に早く出たいって思ってたんですが、案外沖縄も良いかなって、愛着が出始めたんですよね。

そして、そこから沖縄の抱えてる課題にも目を向けるようになって、沖縄の基地問題について自分で調べたり活動するようになりました。調べていくうちに、沖縄以外の地域(長崎など)の人たちとも意見交換したんですが、自分の世界の、視野の狭さを思い知らされました。同じ問題なのに、こんなにも意見が違ったりするんだ、って。そのころから、政治とか、地域の課題解決とかに興味を持ち始めましたね。

高校時代、仲間と写る島袋さん

高校時代、仲間と写る島袋さん

――高校生が、政治、ってすげえ。当時の俺にたいすけの爪の垢を煎じて飲ましてやりたいわ。笑

島袋:いや、そんなすごいことじゃないですよ。当時は高校生でももっと政治とかに関わるべきだなって考えて、議員インターンを組んだりもしました。沖縄の高校生を集めて、那覇市の助成金をもらって、国会・県議会・市議会議員のもとでインターンするというプログラムを友人らと一緒に作ったりして、なんというか、ゼロから自分たちで作り上げたんで、すごく達成感があって。そんな経験をもとにAO入試で慶應のSFCに入学したのです。

■東京の一流大学へ

――大学に入ってからどんなことをしてたのですか。

島袋:政治家になりたいと思って入学したのですが、全然なにもできなくて。大学に在学中は、米軍基地問題にしっかりと取り組めるような政治家になりたいと思って勉学に励んでいたんです。

曽根泰教授のゼミがあって、政策研究と大規模社会調査をやるゼミなんですが、入学前から興味があって、そのゼミに入りたいと思っていました。というのも、米軍基地の問題を沖縄で見ている中で、住民・市町村・県・国の意見がとてもバラバラで、こういった中で合意形成をしていくにはどういう風にするんだろうと考えていたときに、たまたま見つけた本に「討論型世論調査」に行き着きました。

この「討論型世論調査」をやっているのが曽根教授だったので、自分が沖縄の米軍基地問題をきっかけに気になっていたことが学べると思っていたのです。

そういう風に考えていた時に、たまたま知り合った人が曽根ゼミの人で、当時のTAだった松原真倫さんを紹介してもらって、曽根ゼミに入ることになりました。

――いわゆる意識高い系ってやつっすか。すごいですね。

島袋:いや、ほんとにそんなことなくて。でも、結局そこでやってたことって、黒子的に討論型世論調査の活動のサポートをしたりとか、その程度で、全くなにもできてなかったです。

学内で学ぶことに行き詰まっていて、そんな時に曽根ゼミに入った時から、ずっとお世話になっていた松原さんに「一緒に津和野に行かないか」って誘われました。

彼とは、曽根ゼミ内で一緒に一つのプロジェクトに携わったこともあり、仕事の捌き方や、思考の立て方などを教わったりしていた方で、彼から津和野で行われている活動についての話を聞いて、将来沖縄で何かしたいと思っている自分にぴったりだと思ったのと、やっぱり真倫さんに一度「一緒に行ってみないか」、と誘われたからっていうのが一番大きな理由ですかね。それくらい、彼には惹かれてまし、誘われたのが嬉しかったです。

大学時代の島袋さん

大学時代の島袋さん

■津和野へ。そして、大きな失敗から学ぶこと

――大学生活に満足していなくて、将来のことを考えている時に、憧れの先輩から一度行ってみないか、と誘われたわけね。そりゃ、乗るよね。実際、津和野に来て活動してみて、どんなことを感じましたか。

島袋:自分ってまじでなんもできないんだなって感じました。来た当初なんて、持ち前の引っ込み思案とか、人見知りとかが出てしまって、中々地元の人たちとも話せなかったし、自分が組み立てようとしている新規事業についてうまく説明も出来なかった。

今、他地域の団体や自治体が津和野に視察に来る際に利用できる視察プランを組み立てていて、それを商品化しようとしているんですが、そのためには町にあるいろんな事業者さんや、役場内のいろいろな課を巻き込まなくてはいけなくて、それがとても難しかったです。

――なるほど。笑 やっぱり、FoundingBaseで活動して成果を上げることは難しいかあ。参加してみて何か変わったことはありましたか。

島袋:ありました。例えば、そのうまくいかない理由、要は人を巻き込んだり、しっかり人に説明できなかったり、という理由がそれまでは「人見知り」のせいだと思ってたんですが、全然違いました。

というのも、津和野で仕事をする中で、大きな失敗を二回したんです。一歩間違えれば、大問題になるような。一回目にその失敗をしたときには、運が悪かったとか、仕方が無い程度にしか考えなくて、あんまり深く反省しなかったんですね。

でも、立て続けに同じ失敗をしてしまい、こっぴどく叱られました。失敗したことを叱られた、というよりは、自分の態度について、ですかね。

大問題になるような失敗をすると、FoundingBaseがそもそも活動できなくなってしまうかもしれないし、町長にも迷惑がかかるし、これまで期待してくれていた町の人たちも裏切ることになる、そんな簡単なことが考えられていなかったんです。「人のことを考える」ということができてませんでした。

――誰に叱られたのですか。

島袋:FoundingBaseの共同代表の佐々木さんですね。失敗しました、という報告をしたときに、強く言われました「お前は、自分のことしか考えていない。自分の一挙手一投足が、他人の作ってきたもの、これまでチームで築いてきたものを潰すかもしれないということをわかっているか」って。

そのとき、本当にはっとして、今まで自分中心で生きてきたなあと感じました。例えば、その失敗だけじゃなくて、お昼休憩の時間に町の人のところに打合せに行って、彼らの昼食の時間を邪魔したり、そういった些細なことなんですけど、相手の立場に立って徹底的に考え抜いて、行動する、ということができていなかったんです。だから、プレゼンをしても響かないし、人を巻き込むこともできなかった。

――なるほどなあ。でもそういう失敗ができるのもFoundingBaseならではな気がするなあ。今はどんな風に考えてるのですか。

島袋:これまでは全部自分中心だったんです。将来沖縄で活躍したいから、そのための成長の場、って感じで。でも、その一件があってからは、もっと他人に意識を向けて、「なんのために行動するのか」ということを突き詰めて考えるようになりました。

自分の一挙手一投足が、他人を喜ばせることもあれば、悲しませることもある。そんな当たり前のことを痛感したんです。日頃から相手のことを、もっと他人のことを、と考えて行動していると、徐々に信頼され始めていると感じる場面もあるんです。

役場内の別の課の人が、「島袋君、ちょっとエクセル教えて」と言ってくれたり、これまでよりも頼られる場面が増えました。

それに加えて、自分のお父さん的な存在の人が町にいます。イタリアンのシェフの赤松さん、和食料理屋を営む徳政さん、米屋の店主の吉永さん。彼らが応援してくれていることも自分を後押ししているし、彼ら自身も町の将来について危機感を抱いていて、そこに対して自分なりのやりかたで、町のためになることをやっていきたい。

真剣に地元の人と向き合って、一緒に町のための事業や、誰かのための取り組みを作ることって、本当に幸せで、楽しいことだって感じ始めたんです。

■将来は沖縄でFoundingBaseを

――自己中やったのに、えらい変わりましたね。これからの目標はありますか。

島袋:今回の経験を踏まえて気付いたことがあって、それは、いままで言ってた「沖縄でなにかしたい」っていうのはとても曖昧だったということ。

対象がぼんやりしているというか、津和野でいう吉永さんや、赤松さん、徳政さんみたいな人が見えてこないから、リアリティがないのです。

今考えているのは、やっぱり津和野に来て、現場で、現地の人と日々交流しながら、真剣に向き合って活動するのが大切だと思っているので、自分がプロジェクトマネージャーになって、沖縄でFoundingBaseをやろうと思っています!!

この想いを実現するために、この夏に沖縄に帰省したときに、自分がしていることや、FoundingBaseの想いや、哲学などを周りの人に話したりしました。その中から、沖縄のある自治体の町長や職員に対してFoundingBaseのことをプレゼンする機会を頂けることになりました。徐々にだけど、自分の目標に近づいていると感じている。

これって、FoundingBaseの新しい動きだと思うんです。これまでは町に帰ってきたい人がいても仕事がないから、その「仕事」を作るためにFoundingBaseプログラムを導入していた。

けれど、今回って、自分自身が沖縄に帰りたいから、FoundingBaseのプログラムを導入するってこと。つまり、その町出身者自身が、帰ってきたいと思っている人自身が、魅力的な場所を作ることだと思っていて、新しいFoundingBaseのかたちができるんじゃないかなって思っている。

日本には他にも自分の地方に帰りたいと思っている人もいるはずだし、そういう人たちがFoundingBaseの仕組みを使って、地元に帰るため、自分で仕事を作るとかっていう流れができたらいいと考えている。

――「自分のために」沖縄に帰るのですね。これまでとは何が違うのでしょうか。

島袋:「自分のため」だけではないですね。一つが、FoundingBaseの活動が広がって、FoundingBaseのため、メンバーのためにもなる。しかも、これは吉永さんみたいな人のためにもなると考えている。

なぜかと言うと、自分がお世話になっている人たちにも息子さんや、娘さんがいて、彼らのモデルになることができるから。自分自身が、自分の地元にFoundingBaseの仕組みを使って帰ってそこで仕事を作って定着することで、彼が同じように津和野に帰ることができると考えるようになり、津和野の人たちも喜ぶんじゃないか。

加えて、沖縄のためにもなる。FoundingBaseが対象にしている自治体は「何かしなきゃいけないとわかっているが、そういったことをやる人材がいないような自治体」。

今回自分が展開しようとしているのは、沖縄におけるそういった自治体。そこでFoundingBaseを導入して、プロジェクトを進めることで、その自治体にもなる。つまり、自分のためでもあるけど、FoundingBaseや、津和野の人、沖縄のためにもなると考えています。

――なるほど、「自分のため」だけじゃなくて、ってことですね。そこに向けてこれからはどうするのですか。

島袋:沖縄でプレゼンした時に、FoundingBaseの仕組み自体が魅力的なものなのではなくて、FoundingBaseにいる人が魅力的なんだと感じました。

沖縄でやろうと考えた時に、打ち出すべきなのは、FoundingBaseの仕組みではなく、FoundingBaseのメンバーである自分を魅力として打ち出すべきなんだと感じました。

そのために、いまできることを全力でやる。自分自身がしっかりと成長して、FoundingBaseのメンバーとして魅力的になるために、ここにいるんだなと再確認した。そこに向けて、最後まで必死でやりきることです。

島袋太輔(21):
1993年、沖縄県生まれ。慶應義塾大学総合政策学部で政治学のゼミに所属し、「市民と行政の合意形成」について学ぶため、「討論型世論調査」の企画・運営に携わる。2014年4月から大学を休学し、島根県津和野町 町長付けに赴任。観光分野を担当し、自治体向け観光プロジェクト「視察観光」の事業化に取り組む。