タイトル:電園復耕~大通りからそれて楽しく我が道を歩こう
なぜ人を押しのけて狭き門に殺到するのか?自分を愛し迎えてくれる人たちとの人生になぜ背いて生きるのか?
この書き下ろしは、リクルートスーツの諸君に自分の人生を自分で歩み出してもらうために書いた若者のためのお伽話である。(作・吉田愛一郎)
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◆永田町
イッチャンが自宅の二階から南を見渡すとそこは焼夷弾で焼き尽くされた大きな大きな盆地だった。永田町は殆ど、溜池、麻布の岡まで焼け野原だったけれど、丘の中腹の赤い煉瓦の教会だけは何もなかったように建っていた。爆撃を逃れたのだ。いや、そこだけ爆撃しなかったのだ。神様のご加護のようにも思えたが、実際は既に勝利を確信していた米軍は戦後の事を考えて、永田町小学校と第一中学校、それに赤い尖塔の霊南坂教会など教育に必要な建物は残したのだ。
教育とはアメリカ的教育の事だが、、、、、、、、、、
朝日に輝くその建物は災者を憐れむように、遥かに、時には手が届く距離にあるように聳えていた。それは天空に出現した東京のカリフォルニア、ジェファーソンイツの緑の芝生からスーパーマンなら簡単に飛んで行ってしまういそうに思えた。実際、ハイツの建物からジャクソン大佐が大きな双眼鏡で教会を眺めながら、受話器を片手に彼方に居る牧師と冗談を言い合っていたのをイッチャンは覚えている。
イッチャンはその教会の日曜学校に毎週通っていた。地獄の炎に焼き尽くされた荒野を一人で歩いた。日本人の風貌をしていたから一人で歩けたのだろうが、米国人の子供と思えば、まだ幾つもあった防空壕からぼろぼろの軍服を着た兵隊が飛び出して暴行や略奪を加えても不思議ではなかったが、彼はアメリカと日本の間の蝙蝠が嫌だった。
厚木の飛行場から頻繁に飛来していた戦闘機の形をした鷲も好きではなく、イッチャンは地上をとぼとぼ這うネズミになりたかった。両親もそれを良とした。
何か月か経つと、一人の少年がその道行に合流した。ノブチャンというハンサムな同じ小学校に通う日本人の少年だった。イッチャンもノブチャンも一人っ子だったが、ノブチャンはお父さんも居なかった。戦争から戻っていないのかも知れないが、当時の子供たちはそのような話題を務めて避けた。ノブチャンはお母さんが作った布のグローブを持っていた。
イッチャンもマームにグラブを作ってくれと頼んだ、マームはPX(軍の酒保、日用品や衣類など何でもあった)からwilsonの革製のグラブを買ってきたがイッチャンはそれを泣いて拒んだ。マームはそれをよく理解して古い軍服をほぐしてグラブを縫ってくれた。それはイッチャンの一生の宝となった。ボールは軍のベースボールクラブの使い古しを持ってきた。二人で一つのボールには不公平は無かった。
文・吉田愛一郎:私は69歳の現役の学生です。この小説は私が人生をやり直すとすればこうしただろうと言う生き方を書いたものです。半世紀若い読者の皆様がこんな生き方に興味を持たれるのであれば、オルタナSの編集スタッフにご連絡ください 皆様のご相談相手になれれば幸せです。
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