タイトル:電園復耕~大通りからそれて楽しく我が道を歩こう

なぜ人を押しのけて狭き門に殺到するのか?自分を愛し迎えてくれる人たちとの人生になぜ背いて生きるのか?
この書き下ろしは、リクルートスーツの諸君に自分の人生を自分で歩み出してもらうために書いた若者のためのお伽話である。(作・吉田愛一郎)

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◆ダン吉田

GICOの相談役吉田一朗、通称ダン吉田はハワイ生まれで3歳の時、日本に来た。父親のトニー吉田が若くして、ロイヤルコーラの極東支配人に栄転したからだ。ロイヤルコーラはコカコーラやペプシコーラとは違って、米軍を主力マーケットとして営業していたので、トニーの身分は会社の極東支配人であると同時に軍属だったから一家の住まいをジェファーソン・ハイツと呼ばれた米軍基地のすぐ横に構えることにした。

ジェファーソン・ハイツは終戦後東京に幾つかあった占領軍の基地の一つだが、GHQは永田町二丁目の華族の土地を接収して、そこを米軍将校の居留地としたのである。皇居を見下ろすその場所は、金網に囲まれた広い敷地で、緑の芝生には白いペンキが塗られた家々がいくつも点在していたから、そこは廃墟の中のアメリカの生活そのものだった。

家はまさにその基地横で斜め前に石垣で、その上には永田町小学校の三階建の校舎が建っていた。国会議事堂と永田町小学校だけが爆撃を免れたのだ。ダンは父親が後に、国会議事堂は占領後の傀儡政権のため、小学校はアメリカンスクールとして使うため爆弾を落とさなかったのだと語ったことを覚えている。

しかしその小学校はアメリカンスクールにはならなかった。アメリカ人の子供たちはもっと広い土地にある東京の調布のスクールに通った。しかしダンの父親はダンを調布ではなく永田町小学校に日本人吉田一朗として入学させた。

父親が息子を日本人として教育したかったからか便利だったからか今では分からない。とにかく家は学校の始業ベルが聞こえる距離だったから、吉田少年は始業ベルが鳴ってから家を飛び出しても、一列になって校庭に向う朝礼の列の最後尾にちゃっかりと追い付いて遅刻を免れた程だった。

クラスメートは吉田少年をダンとは呼ばず、いっちゃんと呼んだ。ダンと呼んだのは金網の中のアメリカ人だった。いっちゃんはダンと呼ばれるのがあまり好きではなかったし、軍属の父と金網の中に入ってアメリカ人の子供とキャッチボールなどをして遊ぶこともあまり好きではなかった。

そんな姿を小学校の生徒に見られることをとても恐れたからだ。終戦といてもまだまだ両国人にはわだかまりがあった。ダンは自分がイソップ物語の蝙蝠のように日本人の友達から思われるのがとても怖かった。

文・吉田愛一郎:私は69歳の現役の学生です。この小説は私が人生をやり直すとすればこうしただろうと言う生き方を書いたものです。半世紀若い読者の皆様がこんな生き方に興味を持たれるのであれば、オルタナSの編集スタッフにご連絡ください 皆様のご相談相手になれれば幸せです。

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