タイトル:電園復耕~大通りからそれて楽しく我が道を歩こう

なぜ人を押しのけて狭き門に殺到するのか?自分を愛し迎えてくれる人たちとの人生になぜ背いて生きるのか?
この書き下ろしは、リクルートスーツの諸君に自分の人生を自分で歩み出してもらうために書いた若者のためのお伽話である。(作・吉田愛一郎)

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◆さよなら東京

ノブチャンの期待とイッチャンの危惧をよそに怪人Zはそれから二度と帰ってこなかった、そして突撃の火の手も上がらなかった。
兵たちも将校たちはだんだんその数を減らして行ったから突撃の必要性などなかったのだ。そして頼まなくても米軍は東京から全部撤退してしまった。そのせいもあったかもしれないが、ローヤルコーラーの売り上げもかなり落ちて、イッチャンのダッド、トニー吉田にも本社からハワイに帰る命令が出た。イッチャンは良くわからないアメリカに行くのはとても嫌だった。

しかしその日は間もなくやって来た。まだ薄暗い冬の朝、空になった永田町の家に、シボレーのステーションワゴンが横付けされ、二人の米兵の手伝いで大きなスーツケース六つと一緒に一家は羽田空港に向かった。羽田には何人かの軍服姿の米国の将校や背広姿の日本人がすでに見送りに来ていた。

遠慮気味に小学校の担任の竹中先生と生徒代表のノブチャンと中村良子が来ていた。イッチャンは照れ臭かった。ノブチャンはだだ黙って立っていた。良子は泣いているようだったが、仲良しでもなんでもない良子がなぜ泣くのか不思議だった。

アテンションプリーズと英語のアナウンスがあって、吉田一家は税関を通ってコンクリートの飛行場に下りた。冬のコンクリートは固かった。乗客は殆どアメリカ人だったがPan American DC6とスカイブルーで書いてある大きなプロペラ機に向って歩いた。振り返ると送迎デッキにたくさんのアメリカ人や日本人がいて、良子が手を振っていた。ノブチャンの顔の輪郭がぼやけていて、その顔が死んでいるように見えた。それがノブチャンとイッチャンの最後だった。

イッチャンがイッチャンだった最後でもあった。

イチャンはホノルルに着くとダン・ヨシダになっていた。ヨシダ家はホノルルのダイヤモンドヘッドの中腹に家を借り、ダンは地元の小学校からマッキンレーハイスクールに上がった。

ハイスクールではベースボールとフットボールをしたが、フットボールの方が得意だった。T型フォーメーションの左のハーフバックだった。足が速く、特初めの二三歩からすぐトップスピードに乗れる頼りになるランナーだった。3年生の時、ハワイ大学からフットボールで誘われた。そして日本のプロ野球からもベースボール選手として誘われた。どうやらパシフィックリーグのその下位球団にはアメリカ人の選手が二人いたから、その通訳をも兼ねたスカウトだったようだ。

文・吉田愛一郎:私は69歳の現役の学生です。この小説は私が人生をやり直すとすればこうしただろうと言う生き方を書いたものです。半世紀若い読者の皆様がこんな生き方に興味を持たれるのであれば、オルタナSの編集スタッフにご連絡ください 皆様のご相談相手になれれば幸せです。

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