東京の離島・神津島(こうづしま)では漁業協同組合が漁業の魅力や魚の美味しさを発信している。ホームページ「島結び」(http://jf-kouzushima.jp/)では、島で捕れる魚の図鑑や漁師の暮らしや仕事を紹介している。また、飲食店への魚の直販やツイッターでの消費者との交流など、新たな挑戦を始めた。公募によって選ばれ、神津島に派遣された特派員の体験レポートをシリーズでお届けする。(編集担当:殿塚建吾 猪鹿倉陽子)

「島結び」サイト紹介記事はこちら:http://alternas.jp/uncategorized/2011/12/12403.html

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■ハマっこのIターン漁師 田中さん 魚が好きで釣りのために転職
11月初旬。「一本釣りの漁船に乗せてもらえる!」そう思って意気揚々と神津島へ向かったものの、島に滞在していた3日間はすっぽりと低気圧に包まれてしまいました。しかし、時化で漁に出ることができないということは、漁師さんとゆっくりお喋りができる絶好のチャンス。漁師さんと友達になることが一番の目的だった私には好都合です。もちろん、水揚げもできず、しかもせっかくの休日にオバハンの相手をさせられる漁師さんには申し訳ない気持ちでイッパイではあったのですが…。なにはともあれ『恵比寿丸』という船に乗る田中道雄さんにお会いし、お話しを伺いました。

作務衣がトレードマークの田中さん


田中さんは島っこではありません。神奈川県出身のハマっこで、前職は板前さんでした。いわゆるIターン漁師さんで、30歳の時に島に来たそうです。「手に職持つ身でありながら、なぜ漁師に?」と尋ねてみたら「とにかく魚が好きだったんです」と。

物心ついた頃から水槽を何時間も眺めていたり、道を歩いていても水溜まりを覗き込んでいたり、迷子になった時も魚屋さんの店頭にいたりと、田中さんの魚好きはかなりのものだったようです。小学校の6年間は学校帰りに釣り三昧という毎日。とは言え、近くに海がなかったため、こっそり忍び込んだゴルフ場の池や近所のどぶ川を釣り場にしていたそうです。

漁師になる夢を抱きながら16歳で調理師になり、熱海のホテルに5年間勤務。週に一度の休みは、もちろん釣り三昧だったとのこと。その後、誘われるままに川崎のちゃんこ鍋店に移ったものの、あまりの忙しさで釣りに行けない生活に耐えきれずに5年で退職。その後は釣りに時間を費やす為に、夜勤で働けるガソリンスタンドに就職しました。やっと釣りに時間が割けるようになった田中さんは金沢八景や小田原の早川口、小網代などで主に磯釣りをしていたそうです。しかし「メジナとかばっかり釣って帰っても家族も喜んでくれなくて…」ということもあって徐々に船釣りに移行していきました。

こうして釣り三昧の生活をしてみたもののなんだか満ち足りず、これまた5年経った頃、「夜勤も長く続けるものじゃないなぁ」と転職を考えたそうです。石の上にも三年とは言いますが、どんな仕事も5年は続けている田中さんはどうやらじっくりタイプのようです。

奥は田中さんの後に同じ師匠に弟子入りしたIターン漁師の後輩、小椋さん。


■ついに漁師に転職 片道50kmの航行は潮流との戦い
転機が訪れたのは6年前。ハローワークで漁師の求人情報を目にした時のことでした。遊漁船『秀蒼丸』の募集を見た田中さんは「釣りしながら給料がもらえるなんて」とラッキーに思ったそうです。
しかし秀蒼丸は操縦方法がかなり難しいと島では評判の船でした。なぜなら、本土での遊漁船と言えば、港に来たお客さんを乗せて釣り場に連れて行くのが通常ですが、神津島では島に来る釣客が相手ではないのです。集合場所の下田までお客様を迎えに行き、沖合で釣りを堪能してもらってから、お客様を下田に送り届け、そこから自分たちは島に帰って来るのです。

いくら下田が近いとは言えその距離50km。片道2時間半の航行は東京湾内とは比較にならない潮流との闘いです。その秀蒼丸の操縦方法を会得するため、行きは親方が操舵し、帰りを田中さんに任せるという方法で4年弱の修行を積んだそうです。

「実は一度、やらかしたことがあるんですよ」と話す田中さん。船に乗り始めて3年ほどした霧の濃いある日、師匠から「ち〜っと休むから、神津島の港に近づいたら起こせよ」と言われていたにもかかわらず、そのまま黙って操舵を続けてしまったそうです。

プロッター(※GPSで地図上に自船の位置と航路の軌跡を表示する機械)で確認すればよかったのですが、濃い霧に気を取られて目視で港を目指してしまいました。「大丈夫だかい〜」と師匠の声が聞こえた次の瞬間、舳先をドーンと防波堤にぶつけてしまったそうです。もちろん大目玉をくらったそうですよ。

■独立した後も助けてくれる優しい漁師の先輩
今では中古船を購入して独立操業をしている田中さんですが、不安だと思ったら漁には出ないと言います。「海をなめたらダメなんです。俺になにかあったら島のみんなに迷惑をかけてしまいますから」「最初は大変でしたよ。それまで乗ってた親方の船とはまったく勝手も違うから、自分の船に慣れるのに1ヶ月。それにプロッターが真っ白な状態ですからね」。

それで食べていけたの?と思っていると「でも島の先輩たち、優しいんですよ」と話してくれました。例えば独り立ちした時も「俺のあとついてこい」って漁場を教えてくれたり、少し時化ていると「定置網の人手が足りないから」「やることないんやったら○○さんとこの電気工事を…」と声をかけてくれるそうです。
とても嬉しそうに話してくれる田中さんの顔を見ているだけで、神津島の漁師が好きになっちゃいました。でも、こんな話もありました。飲み会に行くと楽しくてついつい飲み過ぎちゃって、翌日はベタ凪(風波もうねりもない鏡のような海面の状態)なのに10分も操舵してられなくなって、沖合でこっそり船を停めていて、他の船が帰って来るのにあわせてチャッカリ港に帰って来る、なんてこともあったようです。

頑張りすぎないことも大事なコツみたいです。でも、飲み過ぎを防ぐにはお尻を叩いてくれるお嫁さんをもらう必要があるのかも?次に会う時には田中さんに「嫁っす」って紹介してもらえるのを楽しみにしています。
(寄稿 「島結び」神津島特派員 佐山なお子)

佐山 なお子 (さやま なおこ)
東京生まれ。高校時代にサーフィンに出会い、大学時代はウインドサーフィンにはまって部活を立ち上げ、年間120日以上は海に通うダメダメ学生だった往年の湘南GIRL。富山出身の両親のおかげで、幼少の頃のオヤツは羅臼昆布。ほぼ毎日のように食卓に刺身が並ぶ食生活を送ったため、魚介類・海草類が大好物。体調を崩しそうになると海に入って治す、というほどの海好きが、海と離れた生活になって10年超。もう一度、あの海へ。