タイトル:電園復耕~大通りからそれて楽しく我が道を歩こう
なぜ人を押しのけて狭き門に殺到するのか?自分を愛し迎えてくれる人たちとの人生になぜ背いて生きるのか?
この書き下ろしは、リクルートスーツの諸君に自分の人生を自分で歩み出してもらうために書いた若者のためのお伽話である。(作・吉田愛一郎)
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◆柔道
「どうするかね」
「どうしようか」
「俺たちも山に上がってボスに聞きますよ」敏夫が言った。
山の上の現場では末広が草の上に黙って座っていた。バースデーが末広の横に伏せていた。馬達はリズが連れて帰ったので、辺りには動く物がいなかった。格好も姿を見せずただカッコー、カッコーという声が南の明石岳の方から響いていた。
末広大助は、浅草で生まれた。家は今戸に有って、靴工場だった。羽振りのよい時代もあったらしいが、末広の記憶では工場にグッドイヤーという機械が、1,2台ある薄暗く狭い仕事場だった。工場には父親と40代に見えた六さんと呼ばれる職人と、頭に手ぬぐいを巻いた母親と、汚れた割烹着を着たパートのおばさんが働いていた。
先代は下駄職人で、家で下駄を作っていた。戦争で家が焼けたが、末広の祖父である先代は苦労して焼け跡に靴工場を建てた。兵隊として送られ、フリッピンで敗退した米軍の脱ぎ捨てられていた片方の長靴を見て、履物職人としてその素晴らしさに驚愕したらしい。だから何とか生き残り、復員しても下駄を作ろうとはしなかったと聞かされた。グッドイヤーとは革製のブーツを作る手法で、靴底と革に部分を縫い合わせるアメリカ人のグッドイヤーが開発した技術である。
末広の父は復員後しばらく、米軍に接収された厚木基地で靴の修理の仕事をしながら、ブーツ作りの技を身に付けた。しかし末広が高校に上がる頃は今戸の靴づくりはさびれていたから、50を前にして急死した父親の後を継ぐすべもなく、末広はやっとの思いで私立の高校を出た。小学生の時から体が大きく柔道をやっていたおかげだった。スカウトされた末広は学費を免除されるほどの有望選手だったからだ。
全寮制の高校で彼は柔道で指折りの選手となって行った。大学からも誘いが来て柔道の名門校、南海大学に奨学金付で入学を許された。当時の柔道は軽量級、中量級、重量級無差別とクラスが分かれ、一、ニ年生は中量級だった彼は三年生になる頃は体が大きくなって、重量級の選手となった。
しかし重量級では小さい彼には120キロクラスの選手と無差別で対戦するにはあまりに負担が重かった。背負い投げを浴びせ倒され左膝の靭帯を切ってしまった。内靭帯だけに深刻だった。焦りから完治しないまま練習を始め、怪我を悪化させた。体重を落として中量級に戻る手もあったが、選手層が厚い中量級には彼の居場所は既になかった。
家もかなり落ちぶれていたから、彼の4つ下の弟も高校を続けられず、浅草の靴問屋の倉庫整理の様な事で家計を助けていた。練習もできず、勉学にも身が入らず、末広は新宿の酒場でアルバイトをするようになった。
◆この続きは10月30日(月)に掲載する予定です
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