(1)からのつづき

 

ものへの捉われからの解放


午後の活動も午前中の継続であるが、私は泥かきをすることになった。荷物を全部出し、床を抜いた状態にある家の中で、床下の土に堆積するヘドロ部分だけを取り除く作業だ。ヘドロ部分は黒く柔らかい。スコップでかき集め、壊れた衣装ケースがいっぱいになったら、外に捨てる。その繰り返し。1時間位経ったと思ったら15分しか経っていないこともあった。慣れない作業のせいで手が痛くなる。水分を取る為に仲間と休憩していると、同じ作業をしている現地の住民が積み上がった生活用品の山を見ながら言った。

「欲しいものがあったらどれでも持って行っていいよ!」
私はふふっと笑ってしまった。しかし、何かを超越しないと言えない言葉だと思った。
「もう未練なんかない!!」
私たちが片付けた家の住民で、高校生位の女の子が母親に言っているのを聞いた。
ものへの捉われ、ということを考える。現代の私たちはものに縛られているということを。ものの所有がステータスという生き方は実は前世代的である。これからは「もの」ではなく、ただそこに自分が存在すること、つまり内在的な価値などがステータスになっていくだろう。そうあって欲しいと心から思う。住む家を失くし、生活用品を失くし、大切な思い出の品々を失うのは本当に辛い。だからこそ、加速的に自分の生活から「所有」を減らしていこうと再確認するに至った。「もの」の喪失が「自分」の喪失につながる生き方はするべきではない。

 

「他人事」から「自分事」へ


15時には予定していた活動を終えて、無事帰路に着くこととなった。バスが出発する際には、こちらが少し小恥ずかしくなってしまう程、感謝の言葉をいただいた。あたたかい気持ちで石巻を発つ。バスの中では、参加者それぞれが想うことを言い合った。今日の活動に参加して良かったという感想が多数を占めた。
今回2度目の参加である都内大学院生(男性)は「今日はただ物を移動しただけ。ここで終わりではない。今度はトラックを持ってきて、産業廃棄物として処理しなければならない。行政の問題もある。継続的な活動が必要だ」と言う。
被災者は動けないわけではない。自分の家くらい自分で片付けたい思いもあるだろう。しかし作業着がないという現実的な問題もある。作業すれば汚れて着る服がなくなってしまうからだ。

何でもやってあげる、という精神ではなく、何に支援を必要としているのかを見極めて継続的な支援を続けることが重要だろう。ボランティア自体に対する意見も多く出た。
「ボランティアの経験を発信していきたい」
「全くの個人が勝手に動くのではなくボランティア団体のミーティングがあるからこそ効果的なボランティアができる」
「無償でボランティアする人々の存在は大きい。被災者の心の励みになるのでは」
「放射線は東京と変わらない。ボランティアを活性化していきたい」

参加者の中に、放射線計を持参した猛者がいて、石巻と東京を比較したが数値は変わらなかったという。春休みも終了し、大学生の就職活動も再開する中、今後ボランティア人口をどう維持するのかが焦点になりそうだ。また、今は母数の少ない社会人ボランティアも、潜在人口はかなりの数に上ると想定される。ボランティアに人々を巻き込むことで、東日本大震災が「他人事」ではなく「自分事」になる。自分事になればしめたものだ。原発も、復興も、風評被害も全て自分の問題。復興のスピードは早くなるに違いない。

遠くの地で経済活性化と叫び無駄な浪費を繰り返すよりも、現地へ行けと私は伝えたい。百聞は一見に如かず、その言葉通りのツアーであった。
(オルタナS 原 彩子)