「明日死んでも満足する仕事をしている」と野田氏は話す。野田氏が同団体の代表に就任したのは、2012年7月からだ。同年の6月、政治家を志すために、外資系の仕事を辞めていたが、創始者である佐藤尚之氏・石川淳哉氏から、「復興をやり遂げてから、政治家になってみてはどうか」と打診された。

そもそも野田氏は、ここまで本格的に復興支援にかかわるとは考えていなかった。彼の意識が変化したでき事は、2011年6月に起きた。陸前高田市にボランティアに行ったときだ。そこで、クリーニング屋を営んでいた60代の男性と出会う。家もクリーニング屋も流されてしまったその男性は、仮設住宅に住むことを拒み、かつて家があった場所にテントを張って暮らしていた。

野田氏は、なぜ仮設住宅に移らないのか不思議に思った。夏前の暑い時期にテント暮らしは体力的に厳しい。仮設住宅に移らない理由を尋ねると、「育った地域から離れたくないからだ」と返事をもらった。

その男性は、「自分が育った場所がなくなるということを想像したことはあるか。まだまだ復興は終わらないが、マスコミもボランティアも時間が経つごとに減っていった。兄ちゃん、この現状を何とかして伝えてほしい」と訴えた。

この男性からの「伝えてほしい」という言葉を聞き、伝えることの大切さを改めて実感した。東京に戻り、仕事のこと、人生のことを考え出した。当時は、務めていた外資系企業で出世コースである香港行きが決まっていたこともあるが、日本に留まり考えた。「これから先の人生を世界で働くことにチャレンジするのか、それとも日本のためにチャレンジするのか」。

30歳を目前に悩みぬいて決めた決断は、「政治家になって日本を変える」だった。2012年の6月に退社が決まり、まずは一年間、政治や社会の勉強をするために政経塾やボランティア活動にかかわろうと考えていた。自身のブログでも、30歳になる記念に、29年間の人生を振り返り、政治家を目指すことを宣言していた。

代表への打診を受けたのは、まさにこの時期だった。政治家になると宣言していたが、このタイミングで代表への誘いを受けるのも何かの縁であるはずと捉え、1時間悩んだ末に承諾した。こうして、助けあいジャパンの新代表が誕生したのだ。

前職と比べると働く環境等は変わったが、「満足した人生を生きている」と話す。「東北を見て、人の生と死は紙一重だと思った。いつ災害が起きるか分からない世の中では、明日死ぬことになるもしれない。だったら、明日死んでも満足できる仕事をしたいと思った。復興に立ち向かえる仕事ができていることに幸せを感じている」と述べる。


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