「次の世代が立ち直るヒントとなる限り、写真を撮り続ける」――フォトジャーナリストの安田菜津紀さんの言葉だ。安田さんは大震災発生直後から東北に通い、写真を撮り続けてきた。代表的なのは、2011年3月に撮影した高田松原の1本松だが、この写真には深いストーリーがある。(オルタナS副編集長=池田真隆)

安田さんが撮影した、津波に耐え抜いた1本松

「ド根性松」「奇跡の1本松」――7万本の松林で津波に耐えたからそう呼ばれた高田松原の1本松。その松を収めた写真が新宿高島屋で2月26日から3月11日まで展示されていた。

陸前高田写真展を主催したのは伊藤忠商事。同社は、復興支援活動として、陸前高田市へ約300人の社員ボランティアを派遣し、市と協力してブランド米「たかたのゆめ」を作っていた。たかたのゆめのPRの一環として写真展は開催された。

イベントには、岩手県大船渡市出身シンガーソングライターの濱守栄子さんとたかたのゆめちゃんが駆けつけた =3月11日新宿高島屋で

高島屋の野村直人販売促進担当次長は、2週間で写真展に訪れた人数を、「推定で10万人以上」と答えた。写真展には、2011年3月から陸前高田市で撮影された15枚弱が飾られていた。すべて、安田さんが撮影したものだ。

その10万人が足を止めた一枚に、「奇跡の1本松」の写真がある。この写真は、安田さんが震災発生直後の3月中旬に撮影したものだ。

筆者がこの写真にまつわる話を安田さんから聞いたのは、2012年の3月。

震災当初、現地では人命救助と次々に来るボランティアの受け入れ体制構築を最優先に手伝わなくてはならず、写真を撮れる環境ではなかったという。そんな中で、撮影した写真だ。

後にこの写真は安田さんのコメント付きで産経新聞に大きく取り上げられた。しかし、安田さんがこの新聞を現地の人に見せに行ったとき、こう言われた。

「なんであんなところに行ったのか。津波が来たらどうするんだと言ったのに」。普段穏やかなその人が、新聞を見た瞬間に声を荒げたのだ。

その男性は津波で妻を亡くしていた。妻が見つかったときには首から下は埋まっていたそうだ。この写真によって、その人の脳裏に3月11日の記憶がくっきりとよみがえってしまったのである。

そして、その人はこう続けた。「前の姿を知らない人からすれば、この1本松は希望の象徴に見えるかもしれない。でも、7万本もあった前の姿を知っている人からすれば津波の威力を証明する以外の何物でもない」。

安田さんは、その時の心境を、「自分は一体何のために写真を撮り、誰のための立場に立って、何のための希望を見つけようとしていたのか、考えさせられた」と話してくれた。

大震災から3年が経過した今日の午後4時過ぎ、筆者は安田さんに、「答えは出ましたか」と電話でたずねた。安田さんは東北に頻繁に通い、写真を撮り続けていた。本日の午後2時46分を、同市の米崎小学校で迎えた。

彼女は電話越しに、2013年の年末、仲の良い漁師さんから言われたある話をしてくれた。その漁師は、「震災発生直後は写真を撮っても何の役にも立たない。空腹は満たされないし、がれきだって片付けられない。あの混乱状況で不謹慎に写真をパシャパシャと撮っている人を見かけたら、もしかしたら怒って、殴っていたかもしれない」と話した。

でも、今になって思うことがあると漁師は安田さんに話を続けたという。「行政も被害を受けたので、当時の詳細な事故状況が分からないし、復興の過程も記録されていない地区があった。けれど、多くの人が写真に収めてくれたおかげで、街の復興の進展具合とおれたちの生きた証が後世に伝えられる。もしまた災害が起きても、次の世代に生き残るヒントを残しておける。そのためにもたくさん撮ってほしい」。

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この言葉を聞き、安田さんは答えを見出せたという。「次の世代が立ち直るヒントとなる限り、これからも写真を撮り続ける」と決意を込めた。



安田菜津紀

安田菜津紀:studio AFTERMODE 所属 フォトジャーナリスト、2003年8月、「国境なき子どもたち」の友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材。守るものがあることの強さを知り、彼らの姿を伝えようと決意。2006年、写真と出会ったことを機に、カンボジアを中心に各地の取材を始める。現在、東南アジアの貧困問題や、中東の難民問題などを中心に取材を進める。 2008年7月、青年版国民栄誉賞「人間力大賞」会頭特別賞を受賞。共著に『アジア×カメラ 「正解」のない旅へ』上智大学卒。オフィシャルサイト
「ファインダー越しの3.11」(原書房)安田菜津紀/佐藤慧/渋谷敦志