作業所でもあり、アトリエでもあるstdioCOOCA(スタジオクーカ・平塚)には、約90人の身体・知的・精神障がい者が所属する。そこでは単純作業ではなく、創作活動を通して、社会との接点を結ぶ。異色の施設を作り上げた関根幹司施設長は、「障がい者の社会適応ではなく、社会の障がい者への対応がインクルージョン」と訴える。(オルタナS副編集長=池田 真隆)
――関根さんは、2009年にstudioCOOCA(スタジオクーカ)を立ち上げましたが、当時から、障がい者のアート性に目をつけていたのでしょうか。
関根:いえ、スタジオクーカを立ち上げた経緯は、そうではありません。障がい者にも、好きなこと・得意なことを仕事にしてほしくてこの施設を立ち上げました。
もともと、スタジオクーカは前身である就労支援を行う複合施設「工房絵(カイ)」にルーツがあります。
就労支援をしていましたが、当時は90年代で、バブルの崩壊が始まったころで、仕事先がありませんでした。彼らが引き受ける仕事は、輸出物を組み立てる作業が多かったのですが、円高の影響もあり、仕事が激減しましたね。
企業側も、身体障がい者はまだしも、精神・知的障がい者への理解は少なかったです。身体障がい・盲・ろうは、物理的な課題を解決すれば、対応できるのですが、精神障がいの場合だと、会社に来るか来ないのかも分からない。そのため、どんな仕事をしてもらえばいいのか、対応策が見当たらないのです。
そして、本人たちにも就労のモチベーションがありませんでした。その背景として、実習で行ったことが仕事のすべてだと思い込んでいたことがあります。たとえば、ボールペンの組み立てを習ったら、仕事はそれしかないと思ってしまうのです。
親のモチベーションも低かったです。施設はどこも満員状態なので、「養護学校を卒業して、やっと施設に入れたのだから、ここにずっといてほしい。就職して失敗したら次の居場所が約束されていないのだから」などという声をよく聞いていました。
――そのような状況でも、社会に出していこうと思ったのですね。
関根:ここの利用者には、「やりたいことを仕事にしてほしい」と伝えています。でも、立ち上げた当初は、「好きなことは何?」とたずねても、答えられない人が多かったです。
なぜなら、学校でも家でも、彼らは常に支持を待つ側でいたからです。仕事の選択肢すら選べない状況は、違うと思い、好きなことを仕事にできる就労施設と掲げたのです。
――工房絵(カイ)は、異色の施設だったと思いますが、成果はどうでしたか。
関根:利用者には、自由に好きなことをしていいと伝えていたのですが、当時20人いたうちの8割が、ボールペンの組み立て作業を選んでいました。
工房絵(カイ)と名付けたのは、養護学校でクラフト作業を学んでいるため、陶芸や縫製作業が好きな人もいるはずと見込んだからです。道具も用意していたのですが、一人も選んでくれなかったことには、衝撃を受けました。
ボールペンを組み立てる軽作業とも、報酬は変わらなかったのですが。おそらく、クラフト作業は余暇活動で、仕事は下請け作業ととらえていたからだと思っています。彼らは、ここには仕事をしに来ると認識していたので、軽作業を選んでいたのでしょう。
利用者の中には、ボールペンの組み立て作業がまったくできない人もいました。その人たちは、雑誌に落書きしていたり、紙を切ったりして毎日を過ごしていました。じゃあ、それをしてくださいと伝えました。当時は、「ゴミ」と言われていたものですが、これが、後の作品につながるのです。ですが、当時は誰もそんなことは思いもしませんでしたね。
親からは大反対でした。1時間に1個でいいからボールペンを作れるようになってほしいと言われていましたね。
――どのようにして、今のようなアトリエになったのでしょうか。
関根:ボールペンを組み立てる気がない人は、親御さんに反対されながら、施設のなかだけで、ほそぼそと自由にやらせていました。そして、福祉展のときに作品の一つとして、展示していました。
ですが、ほとんど誰からも見向きもされなかったですね。こちらとしては、アート作品のつもりで展示したのですが、客は作品を鑑賞しているというつもりではありませんでした。
だから、ちゃんとギャラリー風にしようと決めて、東京のギャラリーを探しました。20年前からそう思い、当時は1週間で24万円する原宿のギャラリーで行ったりしました。利用料を、作品の販売で回収できるとは思ってもいなかったので、まさに、清水の舞台から飛び降りる覚悟でした。
ですが、原宿での展示が劇的な転換にもなったのです。プロからの評価が高く、少しだけですが売れもしました。そうして、展示会を重ねても、常に一定の評価を受けました。
すると、親が驚きだしました。これまで、ゴミとしてしか見ていなかったものが、プロのアーティストから評価を受けたのですから。その当時は、「はずかしいから展示する作品に名前を出さないでくれ」と言われ匿名で飾っていたのですが、徐々に名前を出すように変わりました。おおっぴらに、創作活動をしても反対されなくなりました。
――全国から施設への見学者も増えていったそうですね。
関根:普通は、施設に訪ねてくる人は、同業者や施設利用者、行政の方ですが、日本全国から、施設見学ではなく、「アトリエに伺ってもいいか」と聞かれるようになりました。さらには、「作家さんに会いたい」などと言われだしました。
登録しているアーティストで、自閉症でコミュニケーションが苦手な女性がいます。彼女は、対人関係を避けるのですが、彼女の作品目当てで、多くの人が全国から訪問に来ました。言葉では伝えられなくても、絵はちゃんと、人を呼んでいるのです。こうして、環境が整い、アトリエとなったのです。
――社会では、インクルージョンと叫ばれていますが、「障がい者の自立」とはどういう姿があるべき姿だとお考えでしょうか。
関根:言葉が先行している印象を受けています。まだ答えが出ていないのですが、たぶん、やりながらつくっていけば良いのではないでしょうか。
工房絵の時代からクレームの山でした。工房絵は、商店街の一角に位置していたので、通行人やお店とのトラブルが絶えませんでした。万引き・器物破損・奇声を発するなどの営業妨害行為です。
その都度、店長と話しをするのですが、問題が起きる共通点に気付きました。それは、お店側として、障がい者も来るという前提をもっていないということです。
障がい者が来たら、倉庫に引っ込んだり、無視したり。当事者は困っているだけなので、一言あれば、問題を防げます。無視するから、困ってしまい、万引きなどにつながるのです。養護学校ではお金を持たせず、登下校中に道草をさせません。なかには、送り迎えが必要な人もいるので、お金の使い方をまったく知りません。
お店とは、決まりごとをして、トラブルを起こしたら、次の日は絶対行くことにしました。毎日通うことで慣れてもらうことを狙いました。ただ、理解を得られることは容易ではなく、3時間ほど平行線な話し合いをしたこともあります。
こうした対応はいまでも続けております。クレームを受けるたびに、こちらはストレスになるのですが、どこかで、「よしよし、よくやったぞ」と喜んでいるところもあります。
障がい者の社会適応ではなく、社会が障がい者の社会適応をしていない状況を変えていきたいですから。
もし、万引きしたとしても、「実は先ほど持ち帰ったから、返してくれ」と言えるようにすればいいだけ。障がい者が健常者に合わせることが、インクルージョンの社会ではないはずです。
彼らのほうから、声を掛けたり、アクションを起こしたり、一般の方と接する空間をつくりたい。彼らは、盆暮れや年末の挨拶をしに近所を周るのですが、残念ながら、それを気持ち悪がられることもいまだにあります。
そのイメージを払拭するために、彼らを知ってもらうために、商品から興味を持ってほしいですね。
◆スタジオクーカ公式サイトはこちら
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