温泉街で有名な観光地、草津。そこには、「日本のアウシュヴィッツ」と呼ばれる施設があった-。国立ハンセン病療養所栗生楽泉園並びに重官房資料館を訪問した。観光ガイドブックには載っていない、「草津」を紹介する。(中嶋泰郁・早稲田大学教育学部社会科社会科学専修3年)

栗生楽泉園の正門の柱

栗生楽泉園の正門の柱

山道を、ハンドルを切りながら進んでいく。雪のかかる高い山々を傍目に見る。道路際には雪が積もっている。道は凍っていて滑りそうだ。ふと気が付くと、山は低くに見えていた。標高は、約1000メートル。雪をすくい上げた、白い冷たい風が吹き抜ける。

記事全文を読むにはこちらをクリックして下さい

こんな山奥に、栗生楽泉園はあった。何故どうして、こんな所に?そんな疑問を抱えていると、栗生楽泉園の正門が見えてきた。

栗生楽泉園は、1932年11月に開園した。1931年制定の「癩(らい)予防法」に基づいて作られた、2番目の国立療養所だ。全ハンセン病患者の強制隔離のために作られた。これは、不良患者のみの隔離を対象とした「らい予防に関する件」からの方針転換だ。ハンセン病患者であるだけで、「国賊」だと見なされていた歴史があった。

元来、草津にある湯ノ沢地区には、ハンセン病患者が定住をしていた。温泉療法が、病気に効いたからだ。ただ一般の温泉旅館の利用はできないため、特定の居住地区が作られた。

多くは、そこで職業に就き、自立した生活を送っていた。地区の議員に選ばれていた者も、2名いる。1930年には、800人が生活を営んでいたという。そのため、楽泉園への強制移住には抵抗もあり、収容には10年の歳月がかかった。平和に慎ましく暮らしていた人々が、生活を奪われるという不条理さがある。

楽泉園には、1945年7月には1315人の入所者がいた。職員は112人おり、看護師は22人いた。現在は、94人の患者に対して、212人の職員がいる。その内、看護師は84人で、看護助手は34人いる。かつては圧倒的に看護師の数が不足していたのがわかる。元患者だった藤田三四郎さんは、「当時を考えますとあらゆる作業を患者がやっていた」と振り返る。

栗生楽泉園の歴史を語る、入所者自治会会長の藤田三四郎さん(88)

栗生楽泉園の歴史を語る、入所者自治会会長の藤田三四郎さん(88)

園の運営は、主に軽症患者が行い、看護や治療の手伝いをもしていた。山に入って薪の運搬や、食料の生産もしていた。患者がなくなった場合の火葬も、患者の仕事であった。末梢神経に不具合のあるハンセン病患者に、そのような仕事を任せるのは危ないというのは想像に難くない。患者による火葬は、戦後も15年ほど続いていた。

1953年には新しく「らい予防法」が制定された。戦後まもなくは、「これからは自分たちも基本的人権を享受することができる」と入所者は期待していた。この頃には特効薬プロミンの効果が、判明していた。

戦争も終わったので、薬の入手も可能になったはずだった。らい予防法は、戦前と同じ、強制隔離政策を引き継いでいた。治るようになったのに、退所規定のないままの隔離政策が、平成の時代になっても続いていた。らい予防法が廃止されるのは、1996年(平成8年)だ。その間、人生の大半を療養所で過ごし、又は生涯を終えてしまった者も少なくない。

侵しても 侵されても ならぬもの それが人権 人権を守ろう。入所者自治会の呼んだ句

侵しても 侵されても ならぬもの それが人権 人権を守ろう。入所者自治会の呼んだ句

「隔離政策は、無知と偏見に支えられていた」と藤田さんは主張した。宮坂道夫氏の『ハンセン病 重監房の記録』の一節を借りると、「患者が『科学』に訴え、医者が『政治』に訴えるという奇妙な構図」が存在していた。

ハンセン病は、感染力も弱く、既に薬を投与すれば治る病気になっていた。医療従事者や旧厚生省の官僚は、それを認めなかった。日本のハンセン病政策を巡る問題の所在は、根深い。

栗生楽泉園での問題は、それだけに留まらない。全国13カ所あった療養所には、「監禁室」と呼ばれる部屋があった。藤野さんは、「職員に歯向かうと、冷たいとこにぶち込むぞ!」と怒鳴られた経験がある。

栗生楽泉園には、監禁室だけでなく、「特別病室」という名の監房があった。「日本のアウシュヴィッツ」と呼ばれる程の過酷な状況がそこにあった。続く後編では、その重監房について紹介する。