2015年1月25日は、「世界ハンセン病の日」であった。2日後の1月27日も、人権を考える上で重要な意味を持つ。ポーランドにあったアウシュヴィッツ強制収容所の解放70周年の日だ。過酷な環境で、多くのユダヤ人たちの命が失われた。ここ栗生楽泉園にも、患者を凄惨な環境に置く施設があった。「日本のアウシュヴィッツ」こと、重監房である。(中嶋泰郁・早稲田大学教育学部社会科社会科学専修3年)

アウシュヴィッツ第1強制収容所の正門。「働けば自由になれる」

アウシュヴィッツ第1強制収容所の正門。「働けば自由になれる」

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” open=”no” style=”default” icon=”plus” anchor=”” class=””]ハンセン病療養所は、山奥や離島にある隔離された世界だ。栗生楽泉園も類に漏れない。楽泉園にある重監房は、隔離された世界の中で、さらに隔離された施設だった。一般の患者の居住区からは離れたところにあり、殆ど人は寄り付かない。冬季は降雪のため見ることができないが、現在も建物の土台は残っている。

重監房の模型。8つの房があり、屋根はなかった

重監房の模型。8つの房があり、屋根はなかった

2014年4月には、重監房資料館がオープンした。跡から出土した物品や、重監房の模型、そして重監房の一部を原寸大で再現した建造物が展示されている。重監房は、高さ4.5メートル、横は20メートル程だ。高い壁に囲まれたコンクリートの塊は、無機質な冷酷さを醸し出す。

原寸大の重監房

原寸大の重監房

重監房という名前は、正式名称ではない。建物の入口には「特別病室」というプレートが付いている。中には医務室もあるが、医療行為が行われた形跡は殆どみられないという。19歳の時に入所した藤田三四郎さん(88)は、重監房を初めて外から見た時のことを覚えている。「特別病室というから立派な所かな。中にどんな人がいるのだろう」実態は、名ばかりのものであった。

戸の上には「特別病室」のプレート。右にある木の棒がつっかえに使われると、中から戸が開くことはない

戸の上には「特別病室」のプレート。右にある木の棒がつっかえに使われると、中から戸が開くことはない

癩(らい)予防法による強制隔離は、患者の反発を招いた。1930年代には、抗議や脱柵事件が度々起こった。これを受け、ハンセン病患者のための刑務所の設置が求められた。

当初の予定は、内務省による刑務所の設置だったが、厚生省による病室の設置に変わっていった。そうして愛楽園に作られたのが、特別病室こと重監房である。療養所長の懲戒検束権は拡大し、超法規的な収監も行われた。

1938年から、9年間使用されていた。重監房に入ったのは、のべ93人。内23人が、ここで亡くなったといわれる。布団の上で「干からびた蛙のように凍りついて死んでいる」という証言もあった。楽泉園は、冬にはマイナス20度まで冷え込むこともある。敷布団に薄い掛け布団だけで、どうして生きながらえることができようか。

房に転がる敷布団と掛け布団

房に転がる敷布団と掛け布団

畳4畳ほどの広さの房が8つあった。中にあるのは、布団だけ。天井にぶら下がっているのは、電気の付かない電灯。扉が閉まってしまうと、殆ど何も見えない。下方に食料配給用の、上方に日差しを取り込む用の、穴が2つある。実際には、冬場は昼夜がわからないほどに暗かったそうだ。

房内で立ち上がった時の視線。どんな思いで、外の世界を見ていたのだろうか

房内で立ち上がった時の視線。どんな思いで、外の世界を見ていたのだろうか

『ハンセン病 重監房の記録』(集英社新書・宮坂道夫)によると、全収監者の平均監禁日数は、131日だ。収監された14人が200日を超えている。最も長い人は、549日も中に入れられていた。薄暗く寒い空間で、毎日2度の配給を待ちながら生き続ける。想像を絶するとは、まさにこのことだろう。

食料が配給される穴。穴から伸びた手が、空を掴んでいることもあった

食料が配給される穴。穴から伸びた手が、空を掴んでいることもあった

残っている記録によると、収監されていた人の罪状は、浮浪・賭博・殺人などとされている。中には、夫が職員の反感を買い、抗議した妻もまとめて収監されたという事例もある。明治時代に廃止された、連座制が適用されている。重監房資料館の学芸員の話によると、「罪らしきものはあるが、正式な起訴はなく検証できない。あったとしても、こんな所に入れられるまでの罪かはわからない」という。

重監房は、1947年に廃止され、まもなく破壊されてしまった。実際に目で見て中まで入った人にとって、「重監房の破壊は、都合の悪いものを壊してしまうという『証拠隠滅』にほかならない」と『ハンセン病 重監房の記録』は記している。アウシュヴィッツの第2収容所でも、使用されていたガス室は、証拠隠滅のために爆破されてしまっている。

アウシュヴィッツ第1収容所にある焼却炉

アウシュヴィッツ第1収容所にある焼却炉

「ここはアウシュヴィッツよりも酷い」藤田さんは声を荒げた。ドイツのアウシュヴィッツ強制収容所では、多くのユダヤ人が組織的に毒ガスで殺され、焼却されていた。「ここではミイラになるまで、500日も入れられていた」

重監房資料館を出ると、夕方17時。冷たい風が吹き寄せる。コートを着込んでいるにもかかわらず、凍える寒さだ。房の中で触った、掛け布団の薄さを思い出す。また一際寒さを感じて、身の毛がよだった。

ハンセン病患者であるというだけで不相応な懲罰を受け、生き地獄を味わった人たちがいた。本来患者の生命を守るべき医者が、患者に懲罰を与えていた。特効薬という科学を信じた患者の声が、ないがしろにされていた。その不条理が、戦前だけでなく戦後まで続いていた。

ハンセン病は今や治る病気になったと言われる。患者は高齢になり、当事者として語り継ぐ人は少なくなっていく。なぜいま重監房資料館が作られたのか。なぜいまハンセン病について考える必要があるのか。戦後70年、今一度考えてみる必要があるように思う。