隔離されていた村の周囲の住民は、鼻を摘みながら近くを通っていき、決して村には寄り付かなかった。隔離された人々は、本当にただ死を待つだけのように思われていた。その状況はなんとかしたいと12年前に思い始めたのが、原田燎太郎さんだった。

彼は、どうすれば差別をなくすことができるのかを考え抜き、人を呼ぶことで差別をなくすという方法を考えた。外国人が隔離村を訪れているのを見れば、「あそこは危ないところじゃないのではないか」と周りの住民の意識も変わるのではないかと考えた。日本人という、中国の中では「ヨソモノ」だからこそできる支援の方法だ。

 原田さんの目論見は当たった。まず、外国人が村に訪問しているのを見た、好奇心旺盛な子どもたちが村近くを訪れるようになった。それを見た周囲の住民も、段々と村を訪れるようになった。

ハンセン病はなんら怖い病気ではないということが、地域の住民に段々と伝わっていった。長らく誰にも相手にされていなかった村民たちは、ある日本人の閃めきから、多くの人と触れ合える機会を持てるようになった。

その後、原田さんは、チャオの親団体である「家-JIA-」を立ち上げた。中国の他の場所にある快復村でも、日本人を派遣するという同様の取り組みが進められていった。快復村を訪れるワークキャンプについて、中国人の学生たちは、最初は全く興味を示さなかった。

だが現在は、キャンパーと呼ばれる多数の中国人の学生たちが参加をするようになり、チャオの学生たちと一緒に現地で活動をしている。

働き、語り、飲む。ワークキャンプを通じ、お互いに打ち解けた

働き、語り、飲む。ワークキャンプを通じ、お互いに打ち解けた

快復村で目に見える形での差別はなくなったが、今なお行く意味についてチャオのメンバーに伺った。実際、ミャンマーなどの違うアジア地域に進出することも検討はされているという。

だが、石崎さんは「じいちゃんたち」のいる中国の快復村を訪れることにこだわりを持っている。彼には強い理由があった。多くの人が村を訪れているワークキャンプ期間中の村の様子だけでなく、村の「日常」を知ってしまっているからだ。

石崎さんは、一度村の下見と称して、中国人の学生と2人で村を訪れる機会があった。その時は雨が降っており、うす暗い中を歩き続けて村を目指していた。村に辿り付いた瞬間に目に飛び込んできたのは、しとしと降る雨の中に佇む小屋。小屋の中からはわずかな生活音が聞こえるばかりであった。

それは、文字通り静寂に包まれるという光景だった。皆で訪れる時とは全く違う光景に、彼は衝撃を受けた。訪れた快復村は、昔はハンセン病を患った方が200人以上が暮らしていたところだったが、現在は8人が暮らすのみだ。「人が来ないこととはこういうことなのか…」と染みるように気付かされた。その時石崎さんは、「お前らがいなくなると寂しいな」と漏らしたじいちゃんの気持ちが、わかるような気がしたという。

 人として大切にしなくてはいけない根本が、中国の山村の快復村では学ぶことができる。「この人をもっと知りたい」「この人ともっと仲良くなりたい」といった自然な欲求。そして、そこから始まるコミュニケーション。

チャオ代表の菅沢さんは、「かつてはつながりを断つ象徴だったハンセン病が、つながりを生んでいるのです」と話す。じいちゃんたちは、交流を通して笑顔を見せる一方で、なかなか過去を話してくれないこともある。

チャオの2人共、じいちゃんたちの汲み取れない声があることに、もどかしさを覚える時もある。じいちゃんたちの平均年齢は75歳。

あと30年もすれば、当時のハンセン病差別を生々しく語る人はいなくなってしまう。それでも彼らがハンセン病快復者だからではなく、「じいちゃん」だから話を聞きたいのだ。これが、快復村に足が向く理由だ。じいちゃんたちがいて、つながりがある限り、チャオの学生たちは村を訪れ続ける。

◆ハンセン病問題支援学生NGO「橋-QIAO-」のFacebookアカウントはこちら
早稲田大学平山郁夫記念ボランティアセンター(WAVOC)所属。随時メンバーを募集している。

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