わざわざ中国の山奥の村を訪れて、ハンセン病快復者と交流をしている日本の大学生たちがいる。ハンセン病問題支援学生NGO「橋-QIAO-」(以下、チャオ)だ。「ハンセン病を名打っているが、人を知る活動なのです」と代表の菅沢誠士さんは語る。人と人とのつながりを断つ象徴であったハンセン病から、彼らは何を思い学ぶのか。(オルタナS特派員=中嶋 泰郁・早稲田大学教育学部社会科社会科学専修3年)

快復村でセメント作りをするチャオのメンバー

快復村でセメント作りをするチャオのメンバー

チャオは、ハンセン病問題の支援を行っている学生団体だ。早稲田大学を中心に25人程の大学生が参加している。チャオというのは「橋」の中国語読みで、「人と人との架け橋」を活動の理念にしている。

メインの活動は、夏と冬に実施する、快復村での1、2週間のワークキャンプだ。快復村というのは、現在は快復者と呼ばれる、元ハンセン病患者の方が暮らす村だ。その他、日本国内でも国立療養所の訪問や勉強を行っている。

ワークキャンプでは、大学生たちは、5人程度に分かれて別々の村に派遣される。派遣先の手配などを手伝っているのが、親団体のハンセン病関連のNGO「家-JIA-」だ。

派遣先の快復村は、中国でのハンセン病隔離政策で作られた集落の名残で、アクセスも規模も様々だ。快復者の方が生活をしている村は、概して都市とは隔離された場所にある。

都市から数時間で着く村もあれば、18時間寝台特急に乗った後に山道を3時間歩かなければならないような村もある。村の規模も様々で、50人ほどが生活する村もあれば、8人用の小屋が1つだけという村もある。

村で行っていると伺った活動は、本格的な力仕事だ。例えば、メンバーの石崎興太郎さんが経験したのは、屋根の工事だ。

8人の快復者の方が住む小屋の天井は、雨漏りがしていた。危険な作業ながらも、石崎さんは、屋根に登って工具やセメントを使って修復をした。他にも、雨が降るとぬかるんでしまう道路の舗装も行った。

作業はセメントを作るところから始めるというのだから、驚きだ。すべて、「じいちゃんたち」の生活環境を思ってのことだという。「工事を手伝って、俺たちが頑張っているのを見ると、じいちゃんたちが喜ぶのだよ」石崎さんは、まるで自分の親戚のように彼らのことを話した。

石崎さんと「じいちゃん」、まるで古くからの友達のよう

石崎さんと「じいちゃん」、まるで古くからの友達のよう

ワークキャンプに参加をしたチャオのメンバーは、ハンセン病快復者の方々を、親しみを込めて「じいちゃん」と呼ぶ。

話を伺った2人共、会話の節々で「じいちゃん」との思い出を語ってくれた。彼らは、元々ハンセン病は名前程度しか知らなかったそうだ。入った理由は、「中国語を使いたかった」「海外に行きたかった」などだった。

彼らが真剣に物事を見つめ直すようになったのは、ワークキャンプでの経験がきっかけだ。中国の山村で活動をしている内に、自分たちが交流しているのは、「ハンセン病快復者の1人」ではなく「1人の人間」だと思えるようになったと石崎さんは胸の内を語る。「夜空を見ながら、度数の強い酒を一緒に飲んで…。あまり自分の過去を話してくれないじいちゃんたちだけど、もっとこの人たちのことを知りたいなって思う」。

「じいちゃん」と密な時間を過ごす、代表の菅沢さん

「じいちゃん」と密な時間を過ごす、代表の菅沢さん

快復村は、山村などの隔離された場所にあって、日本で日常的に過ごすような便利な場所ではない。チャオの学生が交流で使うのも中国語であり、うまく思いが快復者の方に伝えられないことがある。「それでも…」と菅沢さんは語り出す。

チャオの日本の学生や中国の現地学生など参加者は、ワークキャンプ中は言語や立場の違いを越え、全力で相手のことをわかろうとするという。「じいちゃんたち」とだけでなく、一緒に日本から参加した大学生同士も腹を割って話せる機会が作ることができる。

「そこで経験した時間はかけがえのないものだ」と菅沢さんは話していた。かえって日本に帰ってきてしまうと、「繋がりの大切さ、人の立場になって考えることを忘れてしまう」と自戒を込めて話してくれた。

チャオの活動が始まったのは、1人の日本人の熱い思いがきっかけだった。中国では、1980年代までハンセン病患者の隔離が続いていた。隔離政策の解除後も、差別や偏見が根強かったという。

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