施設内に入ると、その広い部屋の隅から隅まで展示物が収められている。展示物とは、土器や車、スキー板、昔のテレビ、看板・・・この部屋に収められた展示物のうち400点が映画で使用されたこともある。オリンピックで使われたスキー靴があったりもする。なんだか時代がタイムスリップしたかのようであった。
展示品をみながら芦別、北海道の歴史について話を伺った。
芦別の炭鉱はこれまでに73鉱あり、明治期に1鉱、昭和期に64鉱、平成期に2鉱あり、このうち新旭炭鉱と東芦別炭鉱は現在も露天掘り炭鉱をしている。炭鉱が盛んであった時期の街は、職域と住域が近接した距離にあり、福里厚生施設が充実していた。社宅、浴場、売店、保育園、映画館などは、どの炭鉱も会社が自前で建設をしているほどであった。娯楽にも力を入れていたり、毎回イベント事をやったり、とにかくにぎやかであった。当時の芦別の1つの小学校の全校生徒数は2500人を超えていた。今では信じられない光景である。
1962年、原油の輸入が自由化された。海外と国内の価格競争に勝つことが出来ず、徐々に炭鉱が閉山された。そして芦別の人口も徐々に減っていき過疎化していった。
石炭と聞いて、私たちは何を思い浮かべるであろうか。
過去を想像する人もいるのではないだろうか。
石炭は、製鉄をつくる際や火力発電で欠かせない。実は現在も私たちの身近なところで活躍をしていて、日本の製造業にはなくてはならないのだ。石炭を安価で手に入れるために日本は外国から輸入をしている。つまり、安価で手に入る石炭の価値観は過去も現在も変わっていないのだ。
沢山の炭鉱の展示物が過去の歴史を物語っているのと、長谷山さんの話が連動されて、今を生きている私たちが認識していなくてはならない歴史であると実感した。
そんな芦別にはなんと高山植物の宝庫といわれる崕山(きりぎしやま)がある。実は日本で初めて自由な登山を規制した山だ。市の南東にある標高1066mの山であり、石灰石でできているため珍しい植物が生息していることで知られる。ホテイアツモリソウなど絶滅が危惧される植物も多く、1999年から入山規制が行われ崕山自然保護協会が植物群の保護回復活動を実施している。春先に年に3回ほど抽選で当たった一握りの人たちに登山をするチャンスが与えられているのだ。芦別全体で守り抜いた崕山はいつか登山できたら良いと思った。また、博物館には崕山の素晴らしいジオラマもあるのだ。
「星の降る里百年記念館」は、芦別の歴史がぎっしり詰まっていて、多くのことを教えて頂いた。また、同時に自分の知識の狭さも実感した。長谷山さんは歴史、経済、自然、すべてを知り尽くしている方であり、とにかく話が面白い。館長であり、人に話をきかせる立場であるために、たくさん勉強をしたと伺った。私も卒業論文を書き、人に読んでもらう立場になる。まずは今回の取材で得たことからテーマを固め、それに沿ってたくさん勉強して、濃い卒業論文をかきたいと思った。
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