タイトル:電園復耕~大通りからそれて楽しく我が道を歩こう
なぜ人を押しのけて狭き門に殺到するのか?自分を愛し迎えてくれる人たちとの人生になぜ背いて生きるのか?
この書き下ろしは、リクルートスーツの諸君に自分の人生を自分で歩み出してもらうために書いた若者のためのお伽話である。(作・吉田愛一郎)
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◆人って何だ?
テレビを食い入るように見つめている啓介の耳に店主の声が聞こえた。ラーメンがあがったかと思って啓介が振り向くと、そこに困惑と怯えの混じった店主の顔があった。「ガスがダメだ」。
仕方なしに啓介は店を出た。食えないと思うと余計腹が空いた。電話は依然としてつながらない。堀端に向かって歩く。この通りにはコンビニも無い。グレーの街の黒い魚群がJRの高架線をくぐると左に向かって足早となった。東京駅に向かっている。啓介も東京駅を見ておこうと思った。
菓子パンぐらい買えるかもしれない。しかし魚群はどんどん密集してくる。駅前のバス停には長い列ができている。キオスクにも人がたかっている。駅から人が溢れている。しかし皆とてもおとなしい。流れている時には魚群だったが、停まっていると屠殺を待つ、運命に従順な牛の列に見える。
「有難うございます。今まで肥育していただいて。では一気にお願いします」。啓介は八重洲のバス停を丸ビルの方に曲がって歩いた。歩きながら考えた。東北の人は津波で死んだ。人間はいつか死ぬのだが、いろいろな死に方がある。津波に追われてもがきながら死ぬ人もあれば、死ぬまで戦って息絶えることもある。あるいは刑場に引き立てられる死刑囚となって無抵抗に死ぬかもしれない。俺はどんな死に方をするのだろうか。例え敵につかまっても、最期まで抵抗したいな。何よりも大切な命と言うが、本当に命より大切な物はないのだろうか?
プライドはどうだ?もちろん命より大切だ。愛は?もちろん命より大切だ。仕事は?そこにプライドや愛があれば大切だろうな?でもプライドや愛が有る仕事なんてあるのだろうか?よくわからなくなった。
仕事と死なんて結びつけたことがなかった。でもきっと東北の人たちは自分を顧みず溺れた人を助けたり、愛する人の元へ駆けつけようとしたのだろう。命より大切な物は有るではないか。啓介、何を考えているんだ。お前はいつものように喰いそびれたラーメンや餃子の事を考えていればいいのだ。そうだラーメン屋はまだ店に居るのだろうか?店は地震保険に入っているのだろうか?
三協商事は保険に入っていただろうか?東北の地震に我が社はどれだけの保険金を払うのだろうか?どうでもいいだろう啓介。お前の懐が痛むわけではない。自分の懐が痛まなければ東北の人はどうでもいいのか?考えたってお前は何もできないだろう啓介。それより東北の地震が東京直下の大鯰を起こしてしまったらどうするのか?東北どころではないだろう。
今、日比谷公園と帝国ホテルの間の大通りに海から大津波が押し寄せてきたら、そうしたら溺れる人を浮き輪代わりに使っても助かるのか?命がそれほど大切ならそうしたらよい。啓介は死に方を考えながら歩いた。自分が無実の罪で捕まって死刑を宣告されたら何とか検事官を殺そうとするだろう。出来なくても怒りをもってそうしなければならないのだ。
刑執行間際にナイフを隠し持って死刑執行官を殺すだろう。それが出来なければ唾くらいは吐き掛けろ。それは男ならやらなければならない事なのだ。では地震はどうだ、津波はどうだ。地震や津波を殺せるか。おっともう会社の前だ!
文・吉田愛一郎:私は69歳の現役の学生です。この小説は私が人生をやり直すとすればこうしただろうと言う生き方を書いたものです。半世紀若い読者の皆様がこんな生き方に興味を持たれるのであれば、オルタナSの編集スタッフにご連絡ください 皆様のご相談相手になれれば幸せです。
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