「臨時災害放送局」(以下、臨災局)という言葉を耳にしたことはあるだろうか。臨時災害放送局とは、阪神・淡路大震災をきっかけにつくられた制度で、地震や豪雨などの大規模な災害が起こったときに一時的に開設される放送局である。最近では、4月14日に起きた熊本地震の際に熊本シティエフエムが臨災局に移行した。一つのラジオ局がどのようにして臨災局へとなったのか当時の話を聞いた。(武蔵大学松本ゼミ支局=佐野 こゆ季・武蔵大学社会学部メディア社会学科1年)

筆者は4年生の卒業論文の調査に同行し、熊本シティエフエムの長生修氏に話を聞いた(熊本シティエフエムで)

筆者は4年生の卒業論文の調査に同行し、熊本シティエフエムの長生修氏に話を聞いた(熊本シティエフエムで)

通常、臨災局の運営は、災害が起こった地域の自治体が行うか、またはコミュニティFMがある場合は、そこが運営の役割を担う。熊本地震で臨災局になった熊本シティエフエムは「地域密着」「市民参加」そして「防災」の3つのスローガンを掲げる。今から20年前の1996年に開局した。小学校区を人と人が密につながるコミュニティと考え、小学生に生放送番組に出演してもらう「子どもラジオ局」の放送や、熊本市内の小学校の普段の様子や行事などの情報を載せた「子ども新聞」の発行を行っている。

各地域に足を運んで話を聞いたり、まちおこし活動を行う人や学校のPTAなどから、自分たちの活動の情報を流して欲しいという依頼を受けたりすることもある。「地域振興の役に立ち、地域が行っている活動を、ラジオを通じて市民に伝える。いわば触媒のような役割を果たすことが目的。20年もラジオを続けていると、市民とある程度のネットワークができてくる」と長生氏は手応えを話す。

このような地域に根差した活動は今回の臨災放送にどうつながったのか。

4月14日の前震では災害対策本部こそ設置されたものの、市内には特に大きな被害はなく、翌日の15日に流した情報は震災ごみの出し方だった。

そして16日の本震、長生氏ら局のスタッフ3人は24時間放送で防災情報を流すため、局に泊まっていた。下からドーンと突き上げるような地震だったという。電源装置が動かず一時は放送できなくなってしまったが、偶然にも機材や発電機を見つけ、放送を再開した。

「最初の5日くらいは避難勧告や避難所情報などの命を守るための、それからはライフラインの復旧情報やコンビニ、スーパーなどの営業状況など、生活のための情報を流した」熊本市からの情報はいち早く流し、スーパーには電話をかけて営業時間を確認。バイクで店が開いているかを見て回った社員もいた。

被害状況の発信は大手マスコミに任せ、市民の生活を守ることを最優先にした。迅速に、市民が命を守り生きていくために必要な正しい情報を発信する。これらを念頭に置きながら放送を続けた。

リスナーからも多数の情報、そして「一人じゃありません」「曲や声を聴いて力をもらっている」などの励ましの言葉や感謝の気持ちが寄せられた。18日に臨災局に移行してからは曲のリクエストを開始。棚から落ちた無数のCDから曲を探した。22日に市内94の小学校の校歌のリクエストを開始すると、これが大きな反響を呼び、避難者で大合唱したというメールも届いたという。

「これからも市民の活動の場にネットワークを広げてまちづくりをお手伝いしたい」地域のつながりを大切にして放送を続け、信頼されてきたからこそ、今回の臨災放送は市民にとって大きな役割を果たしたのではないか。

ラジオから流れる情報にどれだけ助けられたことか…パーソナリティーの声がどんなに心強かったことか…臨災放送の最終日に届いたメールには、そんなスタッフやパーソナリティーに対する感謝の想いが綴られていた。

「安心感を与えるという点で少しは役に立てたのかな」長生氏の言葉が印象に残った。臨災局の一番の使命は、被災者の心の拠りどころとなることかもしれない。

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