災害の続いた平成の30年間。特に最後の1年は大阪北部地震、西日本豪雨、北海道胆振東部地震など数多くの災害がおこり被害は日本全土に広がった。既存のボランティア団体や国の対応では間に合わない現状が浮き彫りとなり、官・民・NPOの協働が必要として新たな災害対応の仕組みづくりが模索されている。令和の新たな時代、今後やってくる大規模災害にむけての取り組みが北海道から新しく始まった。(寄稿・福地 波宇郎)
昨年9月6日に発生した北海道胆振東部地震。今年2月には震度6の余震もあり、住民たちはふたたびの揺れに不安を隠せなかった。被害の大きかった北海道厚真町。町の特産品に木炭がある。しかし、胆振東部地震により4軒あった窯元はすべて被災、年齢やほかの仕事との兼ね合いなどから1軒を残しすべて廃業を決断した。
唯一営業を再開した「かまた木炭」も4基あった炭焼き窯がすべて崩落、専業で炭焼きを行っていた同社は厳冬期を前に収入のすべを絶たれてしまった。社長の鎌田武一さん(39)は青森から移住して15年前に炭焼きに弟子入り、今の炭焼き窯を受け継ぎ4年が過ぎたところだった。一度ボランティアが入り、2号窯までの再建を行ったのが昨年秋。しかし2月の余震で再建した窯もまた崩落してしまった。
2度の被災にすっかり肩を落としていた鎌田さんだったが、もう一度再起を決断、それを後押しする形で北海道内の技術系災害支援を行う5団体が結成した「北海道災害技術系ネットワーク」が「炭窯再生プロジェクト」を立ち上げた。
4月中、3回の週末6日間にわたりボランティアを募集、のべ222名の参加者とネットワークスタッフ、昨年支援に入り、外部からネットワークの活動を支援する宮城県の災害緊急支援団体OPEN JAPANの重機オペレーターやコーディネーターもともに活動した。
炭焼き窯は一度作れば30年持つといわれ、鎌田さんも窯作りは初めての経験だった。同業の先輩たちからもアドバイスを受け、社員3人で作り直していたが粘土と火山灰を捏ねあわせ壁を作る作業量は膨大なものだった。道内ボランティアの力を借り再建に向かう鎌田さんたちの姿を見て、土砂崩れにより廃業を余儀なくされた先輩が残っていたナラ材をプレゼントして欲しいとボランティアに依頼する一幕も見られた。
プロジェクトは3週で目標であった2号窯までの再建と3号窯の屋根づくりまでを無事に達成した。鎌田さんは「みなさんのおかげでもう一度頑張れます、あきらめたときもあったけれど、また炭を焼いていきます」と満面の笑みを浮かべて参加者にお礼の言葉を述べていた。今月末にはずっと待ってもらっていた本州の取引先に炭を納品できる予定だ。
平成に入り阪神淡路大震災がボランティア元年と呼ばれた。その後中越地震や東日本大震災を経て災害支援団体も多数設立、ボランティア経験者も増えた。今まで個々で動いていたそれぞれのノウハウや技術力をネットワーク化し、国や自治体と力をあわせることで今後の広域災害に対応していく組織作りがこれからの重要な課題となっていく。