東京の離島・神津島(こうづしま)では漁業協同組合が漁業の魅力や魚の美味しさを発信している。ホームページ「島結び」(http://jf-kouzushima.jp/)では、島で捕れる魚の図鑑や漁師の暮らしや仕事を紹介している。また、飲食店への魚の直販やツイッターでの消費者との交流など、新たな挑戦を始めた。公募によって選ばれ、神津島に派遣された特派員の体験レポートをシリーズでお届けする。(編集担当:殿塚建吾 猪鹿倉陽子)

「島結び」サイト紹介記事はこちら:http://alternas.jp/uncategorized/2011/12/12403.html

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今どきの食材は生産者の顔がわかるのは当たり前。私は生協愛用者だが、産地直送はとにかく美味しい。だが、最近の魚介類で目立つのは海外産だ。知らない名前もかなり多い。日本の魚は? 海はどうなってるの? おりしも植樹活動を広めた漁師の著書“山は海の恋人”も読んだばかりでした。そんな時に舞い込んできた体験ツアー。「漁師さんに会えて、漁も体験できるなんて夢のよう。神の思し召し?」と思い、参加しました。

■私の体は魚で大きくなったようなもの
魚と言えば刺身もしくは塩焼き。これが我が家での食べ方です。仕事から帰ってきた母は、いつも楽しそうに台所で魚をさばいていていました。父はあまり風変わりな料理が食卓に並ぶことを好まず、その影響か今でも私が作る魚料理はいたってシンプルなものです。

カルパッチョなどの今風の食べ方は、あくまでも外でのお楽しみでした。私が育った西武新宿線・野方の商店街ではスーパーは閑古鳥が鳴いていて、食材はそれぞれ専門の店で買うのが日常。そこで母は数軒の鮮魚店をまわって、いつも丸々一匹、活きの良い魚を仕入れてきては「今日は○○があったわ」と自慢げにしていました。いわば私の体は魚で大きくなったようなものです。

■ウィンドスポーツを通じて魚や海の奥深さを知る
しかし、東京育ちの私が魚介類に出会うのは鮮魚店か寿司店ばかり。生きている魚に会うとなると、子どもの頃に体験した潮干狩りか水族館ぐらいでした。大学時代に海のスポーツに出会ったことで、ウインドサーフィンで走り抜ける近海でも網漁をしている漁師さん達がいて、すぐ近くには漁港があることを初めて知りました。

海のスポーツをしていると、必ず学ばなければいけないのが気象や潮流です。少しの変化にも敏感でなければ命にかかわります。晴れか雨かではなく、気圧配置などの情報を読み取って数時間後の変化を予測していました。

それでも残念ながら、未熟な後輩が沖へ流されたことが何度かあります。そんな時に助けてくれたのは漁師さん達でした。「おら~。モタモタしてっと海の藻屑だぞ~」と。まぁ口の悪いこと。泣きっ面に蜂で、ぜんぜん優しくないのです。それが初めて出会った漁師さんでした。

「お前ら。海だけじゃなくて山もきっちり見てんのか! 山にかかる雲を見れば、風向き変わることぐらいわかるだろうが~!」と言われたことは、いまだに鮮明に覚えています。小学生のチビが悪さをして、近所のオジサンに怒られる。そんな構図でしょうか。

その頃から勝手に思い込んでました。「海のことは漁師に聞け」と。そして、教えてもらうには友達になるのが一番だと。

■島で捕れるのはマカジキからキンメダイ主流へ

新島や大島、式根島には行っていたのに、今回訪れた神津島は初上陸でした。かつてはマカジキ漁が有名だったようですが、最近はキンメダイが主流とのことです。

「一本釣りとは果たしてどんな漁なの?」と興味津々でツアーに参加しました。あいにくの天候で体験漁には同行できなかったのですが、キンメ漁を夫婦で営む『光漁丸』の中村雅澄・由佳里夫妻に会うことができました。サングラス姿で漁協に現れた雅澄さん。コワモテの風体に少し緊張するものの「おっ。なに話せばいいんだ?」と先制パンチをくれて、少しホッとしました。

雅澄さんが漁に出るようになったのは17歳。その頃はカジキを突く「つきん棒」という漁業が盛んで、60kgを超えるマカジキが一日に300本以上も水揚げされていた豊漁の時代だったそうです。

ピーク時の島の水揚げは約13億円という頃で、雅澄さんも伊勢エビの刺網漁やタカベを捕るキンチャ(建切網漁)など、色々とやりこなしたそうです。ところがカジキの来遊がめっきりと減り、その後の三宅島の噴火の影響もあったのか、島の漁獲量は減る一方になりました。

平成16年には水揚げが5億円を下回ったそうです。雅澄さんはその頃は遊漁船を操業していました。ちょうど5~6年ほど経った頃、今でも島でただ一人、女性で漁に出ている由佳里さんが一緒に船に乗るようになったそうです。「夫婦(めおと)漁師とかマスコミが名付けたけどさ、そんなカッコイイもんじゃないよ。人を雇う金がなかっただけだよ」と雅澄さん。

■キンメダイを手釣りから電動リールでの一本釣りへ
そして一念発起し、それまでは竿での手釣りだった一本釣りに電動リールを使用したのです。「最初は誰もやろうとしなくってよ」と、一人で試行錯誤を繰り返したそうですが、今では島のキンメダイの一本釣り漁の漁法として定着し、水揚げの60%を占めるまでになっています。いわばキンメ漁の近代化を担った陰の立役者ですね。

「電動リールなら女房だって揚げられるんだよ」


■船室にはシャワーやベッドも――泊まりの漁に備えて
最後に船を見せてもらいました。島の西にある多幸湾へ。係留されているほかの漁船より一回り大きい『光漁丸』。船室にはシャワーもベッドもあって、ちょっとしたクルーザー並。これには驚き。「すごく豪華ですね」と言うと、「八丈島の手前あたりまで、1泊とか2泊して行くのが多いからな」とのこと。なるほど。気のおけない息のあった夫婦だからこそ、遠出の漁も続けられるんですね。

船室には、シャワーやトイレ、簡易キッチンもある豪華さ!


■インタビューを終えて
そんな話をしながら船を見せてもらっていると、しとしと雨がみるみるうちに土砂降りに。雅澄さんは「雨降ってるしよ~。もっと話しにうちに来ればいいだ~。夜にでも来いよ」とおっしゃってくださいました。嬉しかったです。この言葉を聞けて。最初は緊張してたけど、これでいつでも神津島に遊びに来てもいいんだなぁ、と感動。

ありがとうございました。今度は船に乗せてもらいに来ます!もっともっと海のことを教えてください。そして、一杯やりましょうね!


『俺はさ。ホンモノの海の男って思ってる。これからの漁師はさ専門性が大事だよ』と語る中村さん。いいね!海の男!

(寄稿 「島結び」神津島特派員 佐山なお子)

佐山 なお子 (さやま なおこ)
東京生まれ。高校時代にサーフィンに出会い、大学時代はウインドサーフィンにはまって部活を立ち上げ、年間120日以上は海に通うダメダメ学生だった往年の湘南GIRL。富山出身の両親のおかげで、幼少の頃のオヤツは羅臼昆布。ほぼ毎日のように食卓に刺身が並ぶ食生活を送ったため、魚介類・海草類が大好物。体調を崩しそうになると海に入って治す、というほどの海好きが、海と離れた生活になって10年超。もう一度、あの海へ。