2011年3月10日。
東北関東大震災が起こった前日。とあるイベントが行われていた。

One live One school プロジェクト
 「Collect Your Piece~カケラを集めて一つの形に~」

1回のライブで途上国に学校が建つというチャリティライブである。
参加者はシンガーソングライターの川嶋あいさんをはじめとしたアーティスト
たち。(当日のイベントレポートはこちら

主催はAWS。なんと学生団体である。
今回はその初代代表の戸塚憲さんにお話しを伺ってきた。

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『社会貢献というよりも、川嶋あいさんに恩返しがしたかったんです。』

なぜこの団体を作り、イベントを行ったのか、戸塚さんに尋ねたところ返ってきたのはこの言葉だった。

『どういうことだろう??』と私は不思議に思った。
なぜなら目の前にいる青年と、その著名な歌手の接点が想像つかなかったからだ。
しかし理由を聞いて納得した。
その想いこそが戸塚憲という青年に新しい一歩目を踏み出させた原動力だったからである。

●少年時代の夢 甲子園
白球を追いかけた者なら誰でも一度は憧れる夢舞台、阪神甲子園球場。
小学校1年の時から野球を始めた戸塚少年も例外ではなかった。
その想いが確固たるものになったのは6年生の時。
憧れの選手が所属していた桐蔭学園高校が甲子園に出場したのを見た時だった。
『このユニフォームを着てここで野球をしたい』。
戸塚少年はそう決心した。

とは言うものの実際に桐蔭学園高校に入るには推薦の獲得などいくつもハードルがある。

“それなら中学から桐蔭に入ればいい”

そう道筋を示してくれたのは、戸塚さんのお母さんだった。
そのアドバイスに導かれ戸塚さんは桐蔭学園中学に入学。
晴れて念願の桐蔭学園高校野球部に入部することができたのである。
戸塚さんの夢は着実に近づいていた。

しかし、すぐに厳しい現実を味わうことになる。
スポーツ推薦選手の壁だ。
戸塚さんは推薦ではない。彼らとの間には差があった。その中でチームに必要と
されるにはどうしたらいいのか。
考え抜いた末に出した答えはユーティリティプレーヤーというポジションだった。
どこでも守れる選手。それはチームにとって最大のバックアップになる。

その結果、戸塚さんは背番号を勝ち取った。
『大会用ユニフォームはいつものとは全く別ものなんです!・・・初めて背番号をもらった時のことは今でも忘れません』
戸塚さんは当時を振り返り、すごく嬉しそうに話してくれた。

●数々の挫折と重なる不幸
突然の不幸が襲ったのは16歳の時である。
夢への道筋を示してくれたお母さんが亡くなったのだ。
それだけではない。最後の大会直前という最悪の時期に怪我をしてしまったのだ。
戸塚さんは、最愛の母を亡くし、夢の甲子園はおろかベンチに入ることすらできなかったのだ。

しかしそれでも野球への想いは捨てきれない。
戸塚さんは、今度は六大学野球でプレーするという想いを胸に、
受験勉強に励んだ。
しかし一浪してまでチャレンジしたその夢も敢え無く散ってしまった。
その彼に追い打ちをかけるように友人、恩人の死が続いた。

『俺の人生はなんて不幸なんだろう』

そう思ったという。

●一冊の本、スイッチの瞬間
そんな人生のどん底とも思えていた時、一冊の本に出会った。

タイトルは『最後の言葉』。川嶋あいさんの自伝エッセイである。

幼いころに生母を亡くし、養護施設から川嶋家に引き取られた川嶋あいさん。
10歳の時には養父を亡くし、養母と約束した『歌手になること』を目指して15歳で福岡から上京。しかしすぐに事務所を解雇されてしまう。
それでも夢を諦めず、
「路上ライブ1000回」
「渋谷公会堂(現・渋谷CCレモンホール)でのライブ」
を目標に渋谷の路上で歌い続け、デビューを果たす。
しかし2002年8月20日。最愛の養母まで亡くしてしまう。
激動ともいえる人生。『最後の言葉』はこうした川嶋あいさんの生い立ちが綴られている。

『俺はこのままじゃだめだ!苦しくてもこんなに頑張っている人がいるのに!』
この本との出会いが戸塚さんにスイッチを入れた。

そしてこう思った。
『いつかこの人に恩返しをしたい。』

戸塚さんが動き始めた瞬間だった。

(2)へ続く