大震災を経験した東北の小さな漁師町にはどのような人が住んでいるのか。東日本大震災から6年が経過したなか、復興へ向けて立ち上がる人々の素顔を若者が追った。自宅や漁船が被害に遭い、親友まで失った彼/彼女らはどのような思いで日々を生きているのか話を聞いた。

舞台は、岩手県陸前高田市広田町。人口3500人で、広田湾に面した漁師町。震災時には、広田湾と太平洋の両側から津波被害を受け、本島と分断された。死者・行方不明者は50人超、1112世帯中400の世帯が全壊・半壊となった。町に1校あった中学校も津波で流され、150隻あった漁船も1隻を除いて全てなくなった。

広田町は外部のNPOを受け入れていなかったが、震災を機に、この町はある団体と出会った。20代の若者たちからなるNPO法人SETだ。

同団体では、毎年都内に住む大学生を広田町に連れてきて、住民とともに地域の課題を解決する企画を行っている。今回、SETの学生メンバーが広田町の住民にインタビューした。

◆若者とともに復興の先へ、佐々木幸悦さん(66)

岩手県陸前高田市広田町に住む佐々木幸悦さん(66)は、東日本大震災で親友を亡くした。悲しみに暮れていたなか、東京から移住してきた一人の若者が幸悦さんを立ち直らせていった。震災から6年、若者とともに復興の先へと進む。(NPO法人SET=東方 嘉弘・早稲田大学機関理工学部3年)

広田町に来た若者を笑顔で迎える佐々木さん

広田町に来た若者を笑顔で迎える佐々木さん

幸悦さんは1950年7月に広田町で生まれた。中高6年間をバスケに打ち込んだ。高校卒業後は、陸前高田市市役所職員として働きながら、母校の高校でバスケ部のコーチ、広田町の青年会の会長を務めた。

3枚の名刺を持ちながら働いていたある日、気仙沼で会社を経営しているある社長と出会った。その社長から、市役所の窓口の対応に関して、クレームをもらった。あまりにも素っ気なく義理人情が感じられず、ただ仕事をこなしているだけだと指摘されたという。

幸悦さんは考えた。窓口で出会う人たちは、対応が終わったらその後の人生の中でもう会うことが無いかもしれない。だからこそ、一期一会を大切に、一瞬一瞬を丁寧に対応することを心がけるべきだと。

広田のために無我夢中に働き続けて、44年が経った2011年3月11日、あの東日本大震災が起こった。当時、幸悦さんは61歳だった。

その日、幸悦さんは青年会の仲間たちと退職会を開こうとしており、その矢先の出来事だった。還暦祝いも兼ねて盛大に開こうと仲間たちと会場探しから、当日の催し物まで含め、準備をすべて整え、3月11日を待つだけの状態だった。

震災では、想像を絶する自然の猛威に襲われた。ただ逃げて、見ているだけしかできなかったという。広田町の人口3500人のうち、死者・行方不明者は50人を超し、1112世帯中400の世帯が全壊・半壊した。町唯一の中学校も流され、150隻あった漁船は、1隻しか助からなかった。立ち尽くす幸悦さんに入ってくる連絡は、決まって大切な友人の死、もしくは行方不明になったというものばかり。

「一期一会」。広田で出会ってきた人との一瞬一瞬を丁寧に向き合ってきた幸悦さんの44年間が一瞬で破壊された気分だった。流す涙も無くなるほど泣いた。泣いたところで、亡くなった友人はもう戻ってこない。絶望のどん底に立たされた。

佐々木さんを変えていった三井さん(佐々木さんの左)ら

佐々木さんを変えていった三井さん(佐々木さんの左)らと

■若者が来て、広田が変わる

幸悦さんが苦しみを感じているなか、復興は着々と始まっていった。全国から支援に人が駆けつけた。そんな中で、一人の若者と出会った。

当時大学生で東京から復興支援に来ていた三井俊介さんだ。 三井さんも、東京から広田町に来て、初めて自然の猛威に呆然とし、無力感に襲われた。三井さんが広田町に入ったのは震災1カ月後の4月。津波の跡がまざまざと残っていた。

しかし、津波被害とは対照的に、「多くの人が笑顔で迎えてくれた」(三井さん)。甚大な被害を受けたが、「なんとかなる」と強い笑顔を保っていたという。

三井さんは、町の人々と話していくうちに、この町をなくしたくないと思い始める。そうして、三井さんはこの地への移住を決めた。一方で、幸悦さんはそんな思いだけで移住をして、たかが一人の大学生に何もできないだろうと、期待はしていなかった。

しかし、三井さんは違った。三井さんは大学時代から培った人のつながりを生かし、野菜の宅配事業や空き家を改装して宿泊施設にするなど、広田にはなかった新規事業を次々と立ち上げていった。

幸悦さんは言う。「絶望の淵にいたからかもしれない。どこか、否定的になっている自分がいた」と。

「三井と話を重ねていくにつれて、広田の魅力に気付かされ、どんどんこの若者の言うことが面白くなり、好きになっていった。震災で亡くなった大切な友人が、自分の余生のために残してくれた一縷の希望なのだと思うようになった」

「広田町には『ない』ものが『ある』」――。幸悦さんが言った言葉だ。三井さんと話を重ねる中で、自分の中では当たり前だと思っていたことが、ほかの人には当たり前ではないと気付いた。空気が澄んだ広田町で見る満天の星空は、幸悦さんにとっては当たり前。だが、東京に住んでいる若者にとっては、「満点の星空」は非日常だ。

三井さんは広田町でNPO法人SETを立ち上げ、春と夏に東京の大学生を募り、「広田町を残すために何かできるかを考える」活性化活動を始めた。この活動で、これまでに300人の大学生がこの地を訪れた。広田の人々が大学生から町の魅力を気付かされ、大学生は広田の人々から、町の可能性に気付かされるという循環が生まれた

大学生が定期的に来るようになって3年が経った。目に見える変化が広田町に起こっているのかと言われればそれは分からない。けれど、確かなことが一つだけある。それは、町を形作っている「人」は、明らかに変わり始めたことだ。

大学生が来た当初は、どう若者と接していいのか分からなかったおじいちゃんが今では、率先して自宅に大学生を泊めている。若者と関わることが好きになり、広田の未来を託そうとしてくれている。

また、あるおばあちゃんも、広田を今よりもっとご近所同士が仲良くなるように、大学生が行う活性化活動に全面的に協力してくれている。広田に関わる人々が広田のために動く。その一つひとつの行動が広田の未来につながっている。

親友を亡くし、後ろ向きになっていた幸悦さんも変わった。「定年退職して、毎日何もせずに過ごしていた自分が、果敢に新しいことに挑戦する若者たちを見て、刺激をもらっている。こんな幸せな余生はないよ」と話す。

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