~それでも私は自分の可能性にかけてみたかった~




2011年9月9日から公開する舞台「IMAGINE 9.11」で舞台役者デビューする戸田仁奈さんの生涯は壮絶である。幼少期のいじめ、最愛の人との別れ、白血病との長く過酷な闘い、自殺を考えたことも。。。。しかし、彼女は数々の試練を前にしても自らの可能性を諦めることだけは決してしなかった。死と隣合わせの時期を送り、絶望の底を味わった、それでも彼女は今間違いなく舞台に立っている。そんな彼女のこれまでの生きた軌跡をたどる。


あと1週間遅れていたら命はなかった・・・
戸田「小学校4年生の春に微熱に襲われて病院を転々としました。そして兵庫県立こども病院で診察を受けたところ小児がん(急性リンパ性白血病)と判明しました。もし、あと1週間遅れていたら命はなかったそうです。小学校を卒業するまで入退院を繰り返し、なんとか寛解(治ること)しました。」

「がんが移る」壮絶なイジメを受ける・・・イジメに屈せず生きて見つけたモットー・・・
戸田「中学に入学すると周りのクラスメイトから『がんが移る』と言われてイジメを受けました。すごく辛かったですね。でも、イジメには負けたくありませんでした。そんな気持ちを持って過ごしていくうちに私は『やりたいことにはチャレンジする』というモットーを見つけました。」

彼女はそれ以来そのモットーのままに生きました。
高校生活を充実させて、大学では国際開発学を学び、NY州立大学に交換留学もしました。大学卒業後は大手システム会社でSEとして5年間活躍し、学生時代からの夢であった『途上国の法律作成』を実現させるため会社を退社して慶應義塾大学法務研究科(ロースクール)に進学しました。さらに私生活では学生時代から交際していた男性からプロポーズされて幸せの絶頂でした。

ところが、彼女に不運な試練が再び訪れます。
在学中、20年ぶりに小児白血病が再発したのです。
運悪く、骨髄バンクには適合者がいませんでした。化学療法で症状を抑えていましたが、みるみる内に彼女の容貌を衰えていきました。そして、その化学療法の影響で彼女は子どもを産めない身体になってしまいました。彼女は子どもを産むことを強く望んでいただけにとてつもないほどのやるせない思いで苦しみました。
さらに、その時交際していた人から「おれは・・子どもが欲しい。」と別れを告げられました。

そして、寛解したものの2年後にまた再々発。余命1ヶ月が宣告されました。
彼女の両親は病院に「無許可で余命宣告は勝手に行わないで」と頼んでいたのですが病院はその忠告を無視して彼女に告げました。
病院はこうも言いました「治らない人をいつまでもここに居させるわけにはいかない。できるだけはやく出て行くように」
信頼していた病院からの突然の裏切りによって心に深い傷を負いました。

フランス、スペインへの旅を計画する・・・やりたいことをやる・・・
戸田「突然の余命宣告だったのですが、落ち込んでいる時間もないと思ったのですぐにその病院を出て、残された時間でやりたいことをやろうと決意しました。1ヶ月分の予定をぎっちりと組みましたね。フランス、スペインに行ってみたかったので現地で輸血しながらの最後の旅を楽しみました。もう見ることはないなぁと全てのものが美しく見えたのですが、特にフランスで見たサクレキュール教会は最も強く印象を受けています。きっと自分が亡くなったら天国に行くという思いからだと思いますね。」

しかし、その無理やりな旅の代償は重かった。
帰国したときには彼女は意識不明の状態になっていました。残念なことにその状態の彼女を受け入れてくれる病院は存在しませんでした。
ここで多くの人が諦めかけました。

しかし、その時奇跡が起きました。
彼女には当時医大に通っていた弟がいました。弟は教授に頼んで彼女を治療してくれる最適な医者を全国から探しだしてもらいました。そうしてついに彼女を受け入れて治療をしてみようという病院と出会うことができました。

通常、白血球の型(HLA)は6座あり、3座以上が不一致ならば移植は不可能とされています。しかし、その病院は「親子兄弟姉妹間なら3座不一致でも成功する可能性がある」という説で移植手術を行っていました。そして、まさに彼女と彼女の弟、妹両方の骨髄は3座不一致でした。

後遺症が残るかもしれないことで骨髄移植に同意することが怖かった・・・・
戸田「この骨髄移植は大きなリスクがありました。兄弟にもリスクを負わせますし、もし助かっても後遺症が残るかもしれない。このまま苦しみ続けて生きていくよりも、ここで終わらせて欲しいと思ったこともありました。」

最後に親孝行しよう。骨髄移植を決意・・・
戸田「骨髄移植しようかしないか2日間悩んでいたとき、両親から『少しの可能性にでもかけてほしい。最期まで戦ってほしい』と言われました。この言葉で手術を受けることを決めました。生きて今までお世話になった両親に恩返ししたい。親孝行したいと思ったんです。」

そうして、弟から3座不一致の骨髄移植が行われました。
しかし、やはりそう上手くはいきませんでした。彼女は拒絶反応を起こしてしまい、瀕死状態に陥ります。

それでも、家族、病院、そして瀕死の彼女自身も誰一人として戦うことを諦めませんでした。その瀕死の彼女に今度は妹から3座不一致の骨髄を移植しました。
このことは常識では考えられないとても危険なことです。
骨髄バンクの職員や、関係者でさえ「信じられない。勘違いしている。何かの間違いだ。」と驚いてしまう手術でした。

しかし、そのわずかな可能性にかけた闘いは彼女たちに微笑みを与えます。
骨髄移植は成功したのです。その後の経過も無事に過ごし。奇跡的な回復を遂げて、無事寛解したのです。こうして、第二の人生が彼女の前に幕を開けました。


周囲との比較による劣等感、鬱病、死を考えたことも・・・・
戸田「退院して慶應のロースクールに戻ったものの、同期はバリバリ仕事で活躍していて、結婚して子どもを持っている人たちで溢れていました。その周囲と自分を無意識に比較してしまって劣等感を感じて大変落ち込みました。こんな私に所属する場所や環境などないと一時は生きる意味さえわからなくなりました。私より病気で亡くなった人の方が世の中の役に立つのになんで私が生き残ったのかと自分を責めたこともありました。だんだんと友達もいなくなり、人と関わることを避けるようになりました。」

あるシンガーソングライターとの運命的な出会い・・・
戸田「今年の3月の前に大好きだった友人が病気で亡くなりました。本当にショックを受けました。ショックに打ちひしがれているとき3月11日の大震災が起きました。多くの人が犠牲になったこの災害についてあるシンガーソングライター(Laika Came Back)がブログに亡くなったかたへのメッセージを綴っていました。たまたまネットでそのブログを見つけたので読んでいたら、心が震えました。私は今まで死んだ人のところへ行きたいと思っていましたが、今向こうに行っても友人たちにあわす顔があるのか疑問に思ったんです。人生やるだけやらなきゃ、向こうに行ったとき笑顔で『久しぶり』って言えないんじゃないかと感じました。きっと誰かが見てくれているから恥ずかしくない生き方をしようと思いました。」

何かしようと決意・・・
戸田「実は舞台に出ないかとお誘いを受けたのは去年でした。でもそのときは気持ちがついていかず断っていました。それでも、今年は何かしたい。こんな私だからこそ伝えることができるものがあると自分の可能性にかけてみたいと、ISSUIさん(脚本家)にお願いしたんです。これからは舞台を続けるかはわかりませんが、私だからこそ伝えられる生きるヒントを病気で苦しんでいる人だけでなく20代、30代の疲れている人や子どもが産めない女性などに発信していきたいと思っています。」

収録を終えて・・・
人生の分岐点はいつも突然表れる。
そのとき、扉をノックするかしないかだけである。その瞬間は能力や経歴など関係ない。わずかでも自分の可能性にかけてみたいという勇気がその扉を開かせるのだ。

そして、その扉との出会いは偶然なんかではない。
自分のしてきた出来事が周りまわって、また自分に返ってくるように、必ず今自分が立っている場所は過去に行ってきた出来事と何らかの因果関係があるはずである。

そして、戸田さんが今こうして生きていることも偶然なんかではない。
彼女に託された役割を果たすために生きているはずである。
多くの人に感動を与え、その感動が周りまわってまた誰かの背中をそっと扉の前まで押すだろう。








戸田仁奈さん出演 舞台「IMGINE 9.11」HP







(オルタナS特派員 池田真隆)