3月11日の東日本大震災が人生の転機になった人も多い。豊田義信さんもその一人だ。震災前は神奈川県鎌倉市に在住し、福祉関係の仕事に携わっていた。今は熊本県阿蘇で竹籠づくりの名人に弟子入りし、手仕事を身につけようとしている。

豊田さんを阿蘇に導いたきっかけは何か。都会から田舎に生活の拠点を変えたことでどんな変化があったのか。妻のちひろさんも含め、お二人にインタビューを行った。(聞き手:オルタナS特派員 加藤千博)

竹籠を編む豊田義信さん


――阿蘇に移住したきっかけは?
義信 3月14日の昼の福島第一原発の3号機の爆発をソーシャルメディアで知りました。すでに神奈川を離れ、西日本に避難した仲間からも電話が入り、そろそろ差し迫った状態だよという忠告もありました。それで避難しなければならないと思いました。その日の夜、横須賀から避難する人たちの車が出ることを知り、そこに同乗しました。この時、頼りになったのがトランジションタウンのネットワークです。全国にトランジションタウンが生まれていますが、その全国組織のメーリングリストを活用し、トランジションタウン運動を展開している静岡県浜松、奈良と寄り、泊らせてもらいました。しかし、駿河湾を震源とした地震も発生し、浜岡原発も危ないと思い、もっと西へと移動することを決意しました。そして最後にたどりついたのが熊本県阿蘇です。

ちひろ 鎌倉のことが好きで離れるのはとても辛かったです。決め手は将来妊娠して生まれてくる子どものことを考えたこと。まだ二人の間に子どもはいないけれど、近い将来妊娠することを考えたら、被ばくの可能性のある土地に居続けることは良くないと思い、決心がつきました。家出するかのように、人生初めて荷物一つだけ持って、家を後にするという経験をしたけれど、生活の拠点がどこであれ、生きていれば何とかなるという思いで避難しました。トランジションタウンのネットワ―クが心の支えにもなりました。

――突然、知らない土地に来て不安はなかったですか?
ちひろ 阿蘇には仲間と一緒に来たこともあり、不安はなかったです。阿蘇は避難者を受け入れてくれる土壌があり、人とのつながりの大切さを感じました。阿蘇に到着した翌日にはここにしばらく居ようと決断。このあたりは地下水が豊富で自然に湧き出ている水源が何か所もあり、安心できる水が確保できることも決め手の一つでした。直感的にこの土地は自分にとって馴染む気がしました。

義信 こっちに来てから常に楽しい状況で、妻のちひろも楽しいことが分かってきたから、二人で相談して、ここに移住しようと決断しました。

――阿蘇に来て、どんな変化がありましたか?
ちひろ 阿蘇には農作業や家づくりなどやるべき力仕事がたくさんあって、その仕事に精を出す義信君を見ていて、すごく楽しそうでした。表情から本当はそういうことをしたかったのだなと思いました。本来、やりたかった暮らしがここにあるのだと思いました。私もより安心して生きられる環境がどこにあるのか、真剣に悩みました。鎌倉でも生きていけるとは思ったけれど、マスクをして、放射能を気にして生活しなければいけないことを考えたら、阿蘇の自然の中が一番いいと思いました。自身の体をケアしながら、生きられる環境がここにはあります。

――竹籠づくりの道に進んだきっかけは?
義信 5月のゴールデンウィークの間、僕たちは脱原発のアクションを行う予定でした。それと並行して、地元のNPO法人が運営し、廃校を利用した学びの場である阿蘇フォークスクールではイベントも行われていました。雨が降っていたこともあり、脱原発のイベントには行かず、フォークスクールに行ったのです。そこでは地元の工芸家さんや職人さんが子ども向けに手作り品を作るワークショップをやっていて、僕も一緒になって参加しました。僕には大人ということで、竹籠づくりを特別にやらせてもらいました。そうしたら、師匠から「こやつはすじがええばい」と褒められたのです。その日には完成できず、次の日もイベントに参加し、作業を続けました。その翌日には師匠の家に通い始めました。師匠が手を加えてくれて、1週間以上かけて処女作となる「ざる」を完成させました。

豊田さんが作ったざる(地元では「しょうけ」と呼ぶ)


――師匠はどんな方ですか?
義信 哲人のような方で、良く考えられておられ、百姓もやってこられ、地元の高森をまとめてきた方です。この土地で知らない人はいない、文化の守り手なのです。草原の萱を刈って、茅葺屋根の萱を葺き、生態系を守るという文化を復活させた人でもあります。84歳の師匠から学ぶことはまだ沢山あると思っています。

――伝統を受け継ぐということに対してどう思いますか?
義信 この緊急事態の中で、こんなことをやっているのは道楽かと思うこともありますが、自然素材を使って手を動かしているのは、何とも気持ちの良いものです。自分の中で面白い世界が広がったと思っています。竹はタイにもインドネシアにもあり、アジアは水の文化と言われており、その象徴が竹らしいです。阿蘇も火と水の国ですから、そういう意味でも阿蘇ならではだと思います。トランジションタウンを進めていく上でのスピリットにも基本技能の習得というものがありますが、竹細工を学ぶということは大いに役立つのではないかと思います。

――これからどんな生活を目指しますか?
義信 何の素材を使うか、どんな職業をするのか、どこで結婚して、どこで子どもを産むのか、人間の欲という基本的ニーズを満たすためにどうしたら良いのか考えたときに、阿蘇は最適な場所だと思っています。竹籠づくりはその羅針盤になったような気がします。自分が変わることで、それが波動として周りに伝わるようになると思うので、調和した存在になれたらそれで良いです。トランジションタウンとか持続可能とか平和とか言わなくても、自ずとそうなってくれるような環境をつくっていきたいです。本気で7世代後のことを考え、政治とかも党派を超えて、団結する時代に入っていると思います。もう原発事故が起きて手遅れの時代。マイナスから新しいことを始めないといけません。

――ぶっちゃけ、生活費とか大丈夫なのでしょうか?
義信 ぶっ飛んだ話をしてしまえば、今後は日本円を持っていても、それがどんな価値になるか誰にも分かりません。現実には、家賃やガソリンは日本円で支払わないといけません。前職では福祉関係の仕事に就いていて、年収300万から400万はもらっていました。今はぐっとお給料はシフトダウンしました。シフトダウンすると、前年度の年収で税金が徴収されますので、移住する方があれば、移住する前に、宜しければご相談下さい。僕は、ちょうどフォークスクールで事務員を募集していて、国の緊急雇用対策で1年間務められるという話を聞いて、働いています。お給料は最初の見習い期間として、月に一ケタ万円です。サティシュ・クマールも週3日働けば良いと言っていたし、それでいいかなと。今、住んでいる貸別荘は5人でシェアしているので、一人当たり月8000円。インターネットもWI-FIをみんなで割っているから大した金額ではないし、軽トラは地元の人からただで譲ってもらいました。地元の人も月5万あれば暮らしていけるよと言ってくれています。農作業バイトなんかも結構あって、阿蘇には仕事があります。関東から避難してきた別の人は、有機農家の研修に参加して、月10万円もらいながら、生活できている人もいます。野菜は近所の方に形の悪いものをただで分けてもらえるし、狩猟民族みたいに山菜を採りに行けば、ただで食材が手に入ります。皆さんも阿蘇に来る際は、トランジションタウン南阿蘇のブログの連絡先にご連絡下さい。


インタビューは阿蘇山の麓、熊本県高森町で行われた。初夏の阿蘇は緑が眩しいくらい鮮やかで自然の営みが感じられた。人間が本来、やるべき仕事。それは自然に根ざした文化を守ることなのかもしれない。


トランジションタウン南阿蘇