一般人から映像を集めて製作されたドキュメンタリー映画「首相官邸の前で」では、マスメディアに報道されてこなかった原発再稼働反対デモに集まる人々の様子を映し出す。監督を務めた歴史社会学者の小熊英二さんは、メディアの報道の仕方について「枠にはまりすぎている」と疑問を投げかける。(聞き手・オルタナS副編集長=池田 真隆)
――日本では、反戦運動や毛皮反対、労働問題など、さまざまな問題を訴える市民活動はあります。再稼動反対デモを見て、映画化しようと突き動かされたものは何でしょうか。小熊:
それは、当時見たものが、あまりにも素晴らしかったから。それを言葉に表せないから映像化しました。――「素晴らしい」というのは、異なる世代が集まってきていることでしょうか。
小熊:私が素晴らしいと思ったのは、そういう言葉では表せない、人間の持っている真摯さです。私が映画の編集にあたって重視したのは、当時自分が感じた真摯さを、映像としてうまく提示することでした。
メディアの人は、運動を報道するにあたり、「若い世代が来ている」とか、「これまで来ていなかった人が来ている」とか、そういう枠組みにこだわりますが、そういうことはどうでもよかった。そもそも、この映画の対象が「デモ」であるかどうかも、どうでもいいことです。事実、映画のなかには、デモ以外の抗議の場面が多く入っています。デモなら何でもいいかといえば、もちろんそんなことはなくて、何の真摯さも伝わってこないデモもありますからね。
――メディアは枠組みにとらわれている、ということですか。
小熊:メディアだけではなくて、人間はみんなそうですけれどね。
たとえば、外国の人には、地震というものを経験したことがない人が多い。そういう人は、地面が突然ゆれて、建物がばたばた倒れ始めても、何が起きているのか理解できない。「こういう現象がおきることを、『地震』というのだ」という枠組みを持っていないと、現実におきたことを認識できないからです。
それと同じように、原発事故というものを、当時の日本のメディアも、また日本社会の人々も、認識できなかった。原発が爆発した映像が映り、各地のモニタリングポストから放射能の測定数値が出てきても、それが何を意味しているのか、全体像が理解できた人は少なかったと思います。現実に起きていることが、理解できる範囲を超えていたからです。
バケツにはバケツ一杯の水しか汲めませんから、プールいっぱい水が目の前にあっても、それがどのくらいの分量であるか、バケツしか持っていない人には分からない。それと同じように、枠組みが限られている場合は、起きている現実を認識できない。私が原発事故で感じたことは、そういうことでした。
そして、原発事故の後にいろいろな運動が起きても、多くのメディアの人は認識できなかった。彼らが持っていた枠組みは、「全共闘運動と比べてどうなのか」とか、「日本ではデモは起きないはずだ」「最近のデモには中高年しか来ていないはずだ」といったものでしかなかった。
だから、最初は枠組みに当てはまらないから、報道できなかった。そのうち無視できなくなっても、「60年代と比べてどうなのか」とか、「デモは起きないはずなのに、どうしてこんなに人が来るのだろう。参加者に『なぜ来たのですか』と聞いてみよう」とか、「インターネットのせいだ」とか、「若い人が来ているから新しい」とか、そういった報道しかできなかった。本当に持っている枠組みが貧しいな、と思いました。
たとえば、中東かどこかで街が破壊されたあとにデモが起きたら、ジャーナリストは「なぜ来たんですか」とは聞かないでしょう。沖縄で少女が海兵隊員に暴行されたあとに集会にたくさん人が集まっても、やはり「なぜ来たんですか」とは聞かないと思います。
それなのに、原発事故が起きて、東京にも放射能が降ったあとに抗議が起きたら、「なぜ来たんですか」と参加者に聞くマスコミや研究者がいた。そんな質問をするほうがどうかしているし、とても失礼な質問だということが分からないのかな、と思っていました。
――去年6月、男性が新宿駅前で集団的自衛権の行使容認に抗議するため焼身自殺を図りました。SNSでは話題になりましたが、大手メディアでの扱いは少なかったです。これも、どう扱っていいのか整理できていなかったということでしょうか。
小熊:政治目的の自殺の報道は控える、という国際合意も一因でしょう。しかし、そういうものをどう報道したらいいのか分からない、ということも大きかったろうと思います。
くりかえしになりますが、人間は分からないものは認識できないし、認識できなければ報道もできない。またメディアの人は学歴もプライドも高い人が多いですから、「分からない」ということ自体を認めたがらない人もいる。だから、「あんなものは大したことじゃない」とか、「どうせおかしな人間のやったことだ」というふうに、自分の中で処理した人も多かったろうと思います。
――日本は米国社会と比べて市民活動が盛んではありません。この映画では、主張するということの大切さを伝えているのかと思いますが、この映画を通して若者に伝えたいことはありますか。
小熊:日本は、市民活動がむしろ盛んな国ですよ。町内会がやっている街の掃除とか、盆踊り大会とか、学校の運動会とか、地域の農協がやっている野菜市とか。
――それは市民活動とは言わないのでは?
小熊:日本ではね。というより、「そういうものは『市民活動』とは呼ばない」という枠組みを、ある時期以降の日本社会が作った。しかし私にいわせれば、「そういうものは『市民活動』とは呼ばない」という枠組みにとらわれている限りは、「日本はいつまでたっても市民活動が盛んにならない」という自縄自縛から抜け出せないでしょうね。
あなたの質問を聞いていると、アメリカやヨーロッパやアジアの他の国がやっている活動を真似たものしか「市民活動」と呼ばない、というふうにも聞こえます。しかしそうであれば、そういう「市民活動」の定義からいって、日本で盛んになるはずがないでしょう。そのことは、最初から話題になっているデモの見方にもいえることです。「ヨーロッパの国でやっているような、大通りを埋めて行進するものしか認めない」という枠組みにこだわる人は、日本の抗議を馬鹿にしていました。「官邸の前の歩道で、立ったまま叫んでいるなんて、デモとは呼べない」とかね。
だけど私に言わせれば、あれは日本社会の人々が、与えられた条件のなかで自然発生的に創作した政治文化です。少なくとも、官邸の真ん前に20万人も集まって抗議したとか、そんなことが毎週金曜に三年以上も続いているとかいう国は、ほかにはないですよ。
――安全保障関連法の強行採決で、「戦争が起きた当時と似ている」という声も出てくるようになりました。今の日本社会の状況をどう見ていますか。
小熊:国会前の抗議などを見ていて感じるのは、「こんなに陳腐な定型句を、こんなに真剣に叫んでいるのは、皮肉でも何でもなく、本当にすごいことだな」ということです。誤解してほしくないのですが、本当にこれは、皮肉で言っているのではない。
それだけ、日本社会の状況に対して、危機感を抱いている人が多いということでしょう。それを表現するときの言葉が、たとえ定型句であっても、私は否定的には考えません。
もう一つ感じることは、震災後の変化が、ある種の蓄積になっているということです。国会前に来ている大学生たちは、震災時に中高生だった人たちで、国会周辺で抗議することを自然な行為だと思っている。またメディアも、震災直後より、ああした抗議活動を報道するようになった。「日本でもデモは起きるのだ」と認識して、枠組みが変わってきたからでしょう。その意味では、社会は変化していますね。
――これは、うがった見方をしているわけではないのですが、デモだけでなく、代替案か何か具体的なアクションを示さないと社会は変わらないのではないかとも思っています。ただ、それが何か私自身でも分かっていませんが….。
小熊:「代替案」というのは、「それは代替案だ」と認識されて、はじめて「代替案」になるものです。逆にいえば、どんなにいい政策を提示したところで、「それは代替案じゃない」とみなされれば、「代替案」にはならない。
またそもそも、「デモだけでなく代替案を」という人は、別に「代替案」にこだわっているわけではない人も多いと思いますよ。「デモでは不満だ」という感情がまずあって、それから「その理由はなんだろう。そうか、彼らが代替案を出していないからだ」と考えているのだと思いますね。もとから代替案がある人なら、「代替案を出すべきだ。それが何かは分からないけれど」なんて言うはずがない。
――不満に思うその理由は、私の伝え方に原因があるかと思います。2011年当時のデモの報道と、2015年の報道を比べてみても、彼らを表すワードは変わっていません。彼らの活動は、SNSでより拡大し、変化していますが、報道側は変わっていなく、いつも聞くことは同じです。デモの参加者数・年代・力強いメッセージを発した人のコメントを取って記事にしてきました。これでは、より多くの人に届けることはできない。自分でこのデモをどう報道したら、より多くの人に届けられるのか分からないから、何かを彼らに求めているのだと思います。
小熊:「彼ら」に「何か」を求めるより先に、ご自分の思考を縛っている枠組みが何なのか、それを考えてみたほうがいいのじゃないですか。「彼ら」に「何か」を期待するという姿勢は、いわゆる「おまかせ民主主義」でしょう。
先ほど、「映画を通して若者に伝えたいこと」というご質問がありました。それにお答えするとすれば、とりあえず観て、人間の持っている強さとか、美しさを感じてもらいたいですね。そのうえであえて伝えたいことがあるかと言われれば、そういうものを感じるにあたって、既存の枠組みにとらわれないでほしい、と答えておきましょう。
・「首相官邸の前で」公式サイト
*2015年9月2日(水)から隔週水曜日、渋谷アップリンクで公開
◆小熊英二(おぐま・えいじ):
1962年東京生まれ。出版社勤務を経て、慶應義塾大学総合政策学部教授。福島原発事故後、積極的に脱原発運動にかかわり、メディア上での発言も多い。2012年の著作『社会を変えるには』で新書大賞を受賞。他の著作に『単一民族神話の起源』(サントリー学芸賞受賞)、『<民主>と<愛国>』(大仏次郎論壇賞、毎日出版文化賞)、『1968』(角川財団学芸賞)など。映像作品の監督は今回が初めてだが、脱原発運動のなかで得ていた信用のために、多くの映像提供などの協力を得ることができた。