社会的課題をビジネスで解決する「ソーシャルビジネス」が若者から共感を集めるなか、一方で、「スケールアウトしにくい」との声も聞かれる。マーケットありきではなく、貧困や不平等などの社会的な課題ありきで参入するため、従来のビジネスモデルでは苦戦を強いられることが多い。そんななか、ボーダレス・ジャパン(東京・新宿)は、異例の成長を続け、2014年度の売上高は15億円を記録した。ソーシャルビジネス業界をリードする同社の田口一成社長に、立ち上げの経緯から事業拡大の秘けつを聞いた。(聞き手・オルタナ副編集長=吉田 広子、オルタナS副編集長=池田 真隆)
――2007年に起業しました。ソーシャルビジネスにこだわって起業しようと思ったきっかけを教えてください。
田口:大学入学を機に、18歳のとき福岡から上京してきました。その当時は、「大きな男になって故郷に帰るぞ」と意気込んでいました。しかし、こっち(東京)に来てみても、お酒を飲んで遊ぶ毎日で、なかなか打ち込めるものが見つかりませんでした。
そんななか、たまたまテレビで、お腹をぽっこりさせた栄養失調の子どもを観ました。恥ずかしながら、そのときに初めて世界には栄養失調の子どもがいるという現実を知りました。
その映像を観たときに、この貧困問題が、ずっと解決されずにいる社会の問題なら、これに立ち向かうのが、自分の人生のテーマだと一気に燃えました。それは大学2年生になったばかりの頃でしたね。これをやるなら、人生は意味があると本気で思えました。
そこからは、途上国で活動するNGOや団体に連絡をして、話を聞きにいきました。なぜ、この問題に長年取り組んでいるのに解決されないのか、現状や課題などを聞いていると、ある職員から、「田口くん、この現状を本気で変えたいと真剣に思っているのなら、お金のことを考えなくてはいけないよ」と言われました。彼は、「波打ち際で、何かの作業をしても、また次の波が来たら元に戻る。この繰り返しをしているようなもの」と自身の活動を表現しました。
本気で現状を変えたいなら、継続的、かつ、ダイナミックにしないといけない。そのためには、莫大な資金が必要。寄付にたよると継続性がなくなる。そう聞いて、自分はビジネスの観点から抑えていかないといけないと思いました。
それまでビジネスのことなど何も知らなかった僕は、ソニーの社長になって毎年売上の数%を寄付する!とか言っていたのですが、友達から「そんなの株主がOK言うわけないでしょ」と教えてくれました。(笑)
だったら、そういう会社を自分でつくるしかないなと。そして1年間後の大学3年生の夏、米国・ワシントン大学にビジネスを学ぶために留学しました。
そのときに、ティーカフェのプランを考えました。貧困農家から茶葉を買い取り、カフェで提供する。そんなプランでした。お茶について学ぶため、シアトルのお茶屋で働き、ブレンディングも勉強しましたね。
帰国後、ベンチャーキャピタルをまわって、1000万円だったら出すという話になりました。しかし、最後の詰めの部分で、私は貧困農家と直接取引するつもりでいたのですが、投資家から、コストが高くかかるので、最初は商社から買えばいい。儲かってからやればいいと言われました。それだったら、何のためにやるのか意味がないからやらない、と決裂しました。
このキャピタルとのやりとりのおかげで、資本構成の大切さなどを学ぶことができたと同時に、自分の未熟さも痛感し、ビジネスの流れを少しは学んだほうがいいと思い、企業に就職することに決めました。
ビジネス全般が見えるところを選び、ミスミに入りました。3年だけ会社で修行しようと思っていたので、3年で辞めると会社にも伝えて入りましたが、入社して半年が過ぎたときには、2年でいけると思い、その旨を伝えました。
起業して取り組む具体的なプランは何もなかったのですが、2年たったので、宣言通り、辞めました。それが25歳のときです。
――そこからはどうしましたか。
田口:そこからはですね、まだ何も考えていなかったのですが、とりあえず結婚しました(笑)。いまだに義父さんには頭が上がりません。会社を辞めたその月に、ご家族に挨拶にいって、初対面の義父さんから、「キミは何をしているのだ」と聞かれましたが、「今月で会社辞めて、自分でこれから起業したいと考えています」と伝えました。今思うと非常識ですよね。でも、なぜか許してくれました。
しかし、家計は火の車でしたね。
――2年で辞めると決めたときに、貯蓄していた分は使ってしまったのでしょうか。
田口:2年で600万円貯めていました。しかし、ほとんど起業資金に使ってしまいました。
――最初の事業はどのようなことをしたのでしょうか。
田口:本当に何をやるか決めていなかったのですが、そのときに、現・副社長の鈴木が、ミスミの同期で、ビジュアルメディアチームに所属していました。そこでは、全国のカメラマンをネットワークして、撮影依頼が来たらそれに対応する、撮影事業を担当していました。
そこに、大手不動産屋から問い合わせが来ました。全国の不動産物件とその周辺環境を撮影してほしいという内容でした。かなりの数の依頼だったのですが、周辺環境の撮影は、プロのカメラマンではコストが合わないと。そのときに、鈴木が「仕事が獲れるかもしれないんだけど、やれないか?」と話を持ってきました。
その話が来たときは、まだ何をしようかと考えていたので、まずはそれをやろうと決意しました。それで、カメラに慣れた学生や主婦を集めて、4月から1カ月をかけて準備しました。
だけど、全然連絡は来ませんでした。すでにゴールデンウィークになっており、「すーさん、大丈夫?」と電話しても、「ごめん、ごめん。まだ決まらないんだよ」と言われ、「大丈夫か?おれは毎日、笑っていいともを見ているよ!(苦笑)」とか言いながら、焦りは募っていきました。
最終的には、「やっぱり獲得できなかった」という話になり、最初の資金のあてにしていたので、相当困りました。ただ、僕もいちユーザーとして、不動産サイトには物件の周辺環境の写真はあったほうがいいなと思ったので、「僕、写真とりますよ」と不動産屋に飛び込み営業してまわりました。
でも、すべて門前払いでした。「あのねー君、オフィス見てみてよ。みんな暇してんだよ。お前に依頼して、写真を撮ってもらうぐらいだったら、社員にお願いするわ」と言われ、確かにそうだと思いました。そこで、社長さんに「だったら、何か困っていることはないですか」と尋ねてまわりました。
そしたら、どこも集客に困っていると話をされました。当時の不動産情報サイトの枠の取り方は、例えば、月3万円なら10物件、月30万円出せば200物件掲載できるというようなモデルでした。だから、検索結果に並ぶと、広告費をかけられる新興系の不動産会社たちが枠を取ってしまい、地場の不動産屋はなかなか集客につながらない。
そこで始めたのが、不動産の一括見積ウェブサービス。希望のお部屋の条件を登録すると、地場の不動産屋さんから物件提案がメールでもらえるというサービスで、不動産屋さんからはお客さんを紹介できた時にお金をもらうという成果報酬型の仕組みでした。
――なぜ、起業してティーカフェの事業にかかわらなかったのでしょうか。
田口:起業したばかりの頃は、いきなり大きな投資が必要で回収に時間がかかるカフェからスタートする選択肢は無かったですね。まずは、何でも良いから軍資金を貯める事業をやろうと。もし、学生の時、あのままカフェで起業していたら、今よりもっと回り道をしていたかも知れませんね。
そして、この不動産一括見積のウェブサービスをやっていく中で、存在しない好条件の物件いわゆる「おとり物件」を提案して集客につなげる不動産業界の悪習を知りました。これでお金もらってちゃいけないなと思って、そのサービスは売却して、自分たち自身で不動産屋さんをやることにしました。「みんなちゃんとやらないなら、俺が誠実な不動産屋をやろう」と。
おとり物件で一番悩まされていた地方から上京してくる人を対象にした無店舗型の賃貸仲介事業を行いました。電話でヒアリングした条件にあったものを事前にメールで提案し、駅で待ち合わせて、そのまま物件を案内する仕組みです。会社の人事部や総務部に営業しに行き、その会社の専属不動産屋として地方から上京してくる社員さんたちの部屋探しを請け負っていました。スタッフもすぐに数十人規模になりました。
そうこうしていると、外国人の社員さんの部屋探しも出てきたのですが、外国人の入居がのきなみ断られたんですね。びっくりすることにその理由は、外国人は匂いが臭い、うるさい、ルールを守らないなど、偏見に満ちた理由だらけでした。
せっかく日本に来てくれている彼らに、こんな扱いはありえないと頭に来て、これはなんとかしないといけないと外国人向けの住居サービスをやることにしたのです。
外国人の住居状況について調べようと、池袋にある日本語学校に話を聞きにいったら、やはりみんな部屋を貸してもらえないから、先輩の部屋に上がり込むかたちで、ルームシェアで暮らしている生徒が多くいることが分かりました。
でも、そこの先生は、部屋が借りられないことも問題だけど、アジアから来た留学生たちは日本人の友達ができないまま帰国することが多いことに悲しんでいると教えてくれました。
そこで僕は、日本人と一緒に住めるシェアハウスがあったらどうかと生徒さんたちに聞きました。すると、みんな声を揃えて「絶対、住みたい。日本人の友達がほしい」と。
それで、外国人と日本人が一緒に暮らすシェアハウスを僕たちがつくろうと決めました。不動産屋に一軒一軒シェアハウスの概念を説明してまわりました。家賃は僕らが保証する、リフォームの資金は自分で出す、そして、日本人半分と外国人半分で住むことの意義を一から説明しました。当時、外人ハウスと呼ばれる安宿ゲストハウスはありましたが、コミュニティをつくるシェアハウスという概念はなかったので。
ただ、仲介業者にシェアハウスのことを説明しても、理解してもらえなかったので、大家さんに直接説明する機会を設けてもらいました。すると、ある大家さんが、「確か、娘も留学先でそんなところに住んでたと言っていたなぁ。まあ、やってみるか」と、貸してくれることになったのです。それが、今も東武東上線の大山駅にあるボーダレスハウス第1号の始まりです。
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田口 一成(たぐちかずなり):
株式会社ボーダレス・ジャパン代表取締役社長。1980年生まれ。福岡県出身。早稲田大学卒業。大学在学中、発展途上国で栄養失調に苦しむ子どもの映像を見て、「人生をかける価値がある」と起業を決意。2004年(株)ミスミ入社。2006年(株)ボーダレス・ジャパンの前身となる(有)ボーダーレス・ジャパン創業。「ソーシャルビジネスで世界を変える」ことを目指し、社会起業家が集うプラットフォームカンパニーとして、多国籍コミュニティハウス事業や、オーガニックハーブ事業など9つの事業を展開中。