東京の忙しない日々に疲れを感じた一人の若者が、循環型の村をつくろうとしている。福島県の中央部・三春町で薪ストーブ用の薪を販売する武田剛さん(33)だ。原発事故で甚大な被害を受けた地域で描く未来予想図を聞いた。(聞き手・オルタナS編集長=池田 真隆)
――武田さんは起業される前、東京に上京しています。東京に来たきっかけを教えてください。
武田:子どもの頃から、広い世界を見たいという思いがありました。もともとファッションが好きで、華やかな世界に憧れ、高校生の頃から友人の髪の毛を切っていました。
2年生になる前には、将来は美容師になりたいと考えていましたので、卒業後は東京の美容専門学校に通うため上京しました。
――福島県内の工業高校を出ていますが、周囲はどのような進路を選んでいますか。
武田:同級生の7割程度は地元の工場などに就職します。東京に行く人や、ましてや美容師を目指す人はいなかったですね。親は「好きなようにやれ」と応援してくれていました。
――20歳で念願だった東京の美容室に就職しました。働いてみていかがでしたでしょうか。
武田:都心にある有名美容室は自分には合わないと思い、中央線の西荻窪にある個人経営のお店に入りました。流行を追った最新のカットではなく、個性的なカットにこだわりを持っていたお店でした。
25歳まで働いたのですが、憧れていた東京では疲れてしまい、最終的には心のバランスが崩れてしまいました。
――どこに疲れを感じましたか。
武田:満員電車、緑のない生活、効率主義で終わりの見えないスピード感などです。最初のうちは、都会はそういうものだと自分に言い聞かせて、無理に合わせていましたが、知らず知らずのうちに疲れは蓄積されていました。
――実家に戻ったのはちょうどその頃ですね。
武田:はい、バランスが崩れてるなと感じていたときに、東日本大震災が起きます。発生当時は情報が錯綜していて、被害状況が分からなかったのですが、徐々に放射能の影響でかなり甚大な被害が出たと知りました。
実家は損壊しなかったのですが、阿武隈山系で取れるシイタケの原木を農家に供給していたので、放射能によって、当分は供給できなくなってしまいました。原木シイタケを保管するための新しい施設をお金を掛けてつくったばかりだったので、お先真っ暗という状況でした。
ついには精神的なものからくる過労で父と母の具合も悪くなってしまいました。ちょうど将来について悩んでいたので、とりあえず先のことは考えずに、まずは一旦帰ろうとこのときに決めたのです。
――戻ってからは、まず何を始めましたか。
武田:シイタケの原木の供給はできなかったので、三春町の畑の除染作業をJAから委託を受けて取り組みました。帰ってきたときには、父は前向きな性格なので、「必ずチャンスはあるはずだ」と力強く言っていたのが印象的でしたね。
――そこからどのようにして独立しましたか。
武田:震災前から少量ですが、冬には薪ストーブ用の薪の販売をしていました。シイタケ原木に使えない木を切って、売っていたんです。顧客は一定数いたので、長野県や愛知県から原木を仕入れ、薪の販売を徐々に広げていきました。
そうして2014年に薪の販売を本格的にやっていきたいと考え、薪部門を独立させる形で起業しました。
震災前の顧客数は一般家庭を中心に20程度でしたが、700まで伸ばしました。事業が拡大するに連れて、人手が足りなくなったので、郡山市でウェディングプランナーとして働いていた姉とユニットバスの施工業者だった兄も一緒に働いてくれるようになりました。
昨年12月には工場の近くに築100年の古民家を購入しました。人と時間を掛けて、改修し、「暮らし」を発信していきたいと思っています。
――どんな暮らしでしょうか。
武田:一言で言うと、自然の摂理に従った昔ながらの生活ですね。薪で火を起こしかまどでご飯を炊いたり料理します。ピザ窯でピザも焼きたいし、お風呂やサウナもつくりたいです。それは丁寧で、手作りで、古くて新しいものだと思いますね。
この暮らしを健康や環境意識が高かったり、丁寧な暮らしを心がけていたりする人に届けたいんです。
いずれは、古民家を中心にして、自分たちで有機野菜を育てたり、放牧しながら酪農したりして、自給自足で循環型の村をつくりたい。
ここで見て育った原風景をなくすことなく、繁栄させていきたいんです。古民家を買った一番の理由もそこにあります。
――いま振り返ると、東京で広い世界を見たいという思いはどうなりましたか。
武田:自分次第で、どこでも広い世界は見えると思いますね。こっちに帰ってきて、自分で会社を経営して、仕事を通して感謝や責任を痛感することが増えました。
不安でいっぱいだった将来についても見えてくるようになりました。ぼんやりと思い描く理想の暮らしを追求するために、とにかく本を買い漁りました。結局は、幸せになりたいんだと思いましたね。
ただ、自分一人が幸せになりたいのではなく、周囲とともに幸せになることが、自分が求めていることでした。そう考えたら、自分の幸せより、まずは家族や仲間、地域の環境に貢献したいというイメージを持てるようになったんです。
東京では流行りを追っかけていて、自分の物差しがなかった、つくられた情報を信じ切っていたと思えます。
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