「面白さ」を求めてテーマパークへ、劇場へ、映画館へ出かける。
「面白さ」を求めてYouTubeを、Instagramを、TikTokを見る。
「面白さ」だけを求める日々を送ってもいいだろう。人生に何を求めるかは個人の自由だ。
しかし、気候変動、プラスチック海洋汚染、台風洪水、森林火災、ジェンダー問題、格差社会、貧困や飢餓、難民問題、監視社会、少子高齢化――社会に目を向ければ自分に関係している様々な問題が目に入ってくる。
すぐに手に入る情報、わかりやすく噛み砕かれた情報で学ぶことも有効的だと思う。
しかし、時に抽象度高く、体感的に、学ぶ〈体験〉をすることは自分の価値観を根底から揺さぶってくれることがある。
その体験をもたらせてくれるのは「ドキュメンタリー映画」であったりする。(石田 吉信=Lond共同代表)
私は2020年初頭に「cowspiracy〜サステナビリティの秘密〜」というドキュメンタリーを観て、畜産業の環境負荷を思い知り、強く心揺さぶられヴィーガンになった。
ドキュメンタリー映画というカテゴリーの中でも、このドキュメンタリー3選は、長回し、冗長の極み、冗長表現好きの僕でも相当の忍耐力を要した。
その分、耐えて、耐えて、耐えて、やっとその世界に没入して得られる体感は、他ではそうそう得られるものじゃない。
そう、言わばそこまでの苦労をせねば手に入らない体験や情報を私の知的好奇心は求めている。
観終わった後にすごかったけど金輪際もう観たくないと思ったのだが、数日して、また観たいという気持ちになっているので不思議だ。映画を「観た」というより「体験した」という感覚がする。
国際映画祭でたくさんの作品が選出されているセルゲイ・ロズニツァ監督作品だが、今まで22作品のドキュメンタリーを発表し、今回最新作を含む近作3作品が日本初公開となった。
「群衆」と銘打たれたこのドキュメンタリー3選はその名の通り、群衆に目を向けた作品がキュレートされた。
まるでその群衆に紛れてそこで起きている粛清裁判やスターリンの国葬を見守っているようであった。
またナチスにより大量虐殺をされた強制収容所へツアーで訪れているようであった。
再三書くが、没入するまでに要する忍耐力はなかなかのものだ。
今や、YouTube的な言葉と言葉の間を切り取る編集や、飽きさせない工夫をした様々な編集動画がネット上に溢れているが、それらとは全く真逆のものになり、それらに慣れてしまった人、また一番に、面白さやエンターテイメント性を求めている人には不向きかもしれない。
個人的には最近のこの編集傾向に慣れてしまったことにより、現代人の忍耐力が下がっていることに対して想像力や大きな物語への理解力の低下を危惧している。
私はその3本のドキュメンタリーを一気に観た。
「3選」とキュレートしたくらいなのでおそらく同じ空気感、同じ世界観があるのだろうと、それを体験するのに日を跨いでしまうよりもそのまま3本観て世界観に浸った方がおそらくより深く体験できるであろうと期待した。
15分のインターバルで、3本連続で渋谷のイメージシアターフォーラムで鑑賞した。
7時間ほど映画館にいたのは初めてのことであった。
1本目に「粛清裁判」、2本目に「アウステルリッツ」、3本目「国葬」の順で鑑賞した。(映画館がそういう順序だった)
この順番は結果、正解であったと思う。
ソ連、ドイツ、ソ連の順番なので、ソ連のものは繋げて観たかったなぁ、と最初は思ったが、セリフがほぼ無く、映像も新しい分「アウステルリッツ」を観た体感はまだ軽い(とても冗長ではあるが)この映画が間に挟まってたのでなんとか3本観られたと思う。
「粛清裁判」は延々と詳細な裁判的な内容を不慣れなロシア語で話しているので、耳慣れるまで脳がだいぶ疲弊した。また延々喋っているので文字を追うのが容易ではない。
また「国葬」の荘厳たる雰囲気、冗長さは重厚の極みであった。その圧倒的な体感に身体を強張らせながらたくさんの事を考えた。
もし、この2作を繋げて観たら、、、とてもとても疲弊すると思う、、、
以下、特に粛清裁判がネタバレを含むのでネタバレが嫌いな方はここで読むのをやめたほうがよいかもしれない。
ネタバレを含めないと核心を含めたレビューが書けないのであしからず。
しかし、ネタバレして観ても、そういう理解の元観てもこの歴史的大作は面白いと思う。
3作の中で「粛清裁判」が一番内容としてはまだエンタメ性があるかもしれない。それはこの裁判が「嘘」、虚構だからだ。はっきり言って最初から最後まで嘘に見えない。
張り詰めたその全てが裁判長も検察も被告人も演技だなんて振り返っても疑う箇所などなかった。最後の最後にテロップでそれが明かされるが、私は無知なままに観たので純粋に驚かされた。
何故、そんな嘘の裁判をするのか。著名な教授や科学者を〈反政府組織〉として〈でっちあげ〉群衆の前で死刑宣告をする。
なんと死刑宣告に歓喜湧く群衆、いや、狂喜と言っても過言ではない。また裁判映像の合間で時折挟み込まれる、「反政府組織のやつらに死刑を求める」という旗を掲げ街中でデモをする多数の群衆。
その群衆の攻撃性を見て、現代より100年もさかのぼる、最近の人々、それが同種の、自分と同じ人間なんだということに体が震えた。
そして、同調圧力というものは日本特有のものではないのだということに気が付かされた。
どの国にも自分で考えず、自分の意見を持たず、世論で思想や行動を流される人たちはいるのだ。いや、もしかしたら人間の普遍的な本性なのかもしれないと思わされた。
さて改めて、何故こんな裁判をしたのか。
それはまさにこの〈群衆〉を扇動するためである。仮想の敵を作ることにより政府を、スターリンをヒーローに仕立て上げるためのスターリンの戦略の一つがこの「劇的な」裁判であった。
本当に恐ろしいことである。スターリンと言えば、そこまでは詳しくはないがヒトラーと並ぶ独裁者という認識であったが、こんなことまでするのか、こんなあからさまな嘘を国の指導者、権力者がしていいものなのか、これがたとえフィクションだとしても大胆な脚本である。
そして、そのスターリンの国葬のアーカイブを繋げた「国葬」ではまた違った驚きがあった。
本当にたくさんの群衆がスターリンの死を悼み涙していたのである。
とても大切な者を喪った感傷に溢れていた。
私はその群衆の、その人間の愚かさに、また独裁者のカリスマ性と脚本に恐れ慄いた。思考停止の怖さを目の当たりにした。
再確認だが、スターリンは何百万人もの人間を自分の描く理想のために「排除」、大量虐殺した指導者だ。
自分に都合の悪い人を逮捕し、シベリアの奥地へ移住させたり、死刑にしたり、数々の横暴をはたらいた。
それを念頭にこの「国葬」に出てくる群衆の表情を観ると何とも言えない気持ちになる。
おそらく私たちは歴史を後から見返してるからそんな風に思えるのだろう。当時のソ連で生きていたらスターリンの非人道的な行動は知ることができなかったのかもしれない。メディアも限られていただろうし、おそらくプロパガンダとして操作されていただろうし。もちろんスマホもSNSもない。
それは現代の日本、世界においても言えることかもしれない。現代にもテレビや大手ネットニュースでは流れない真実があるのかもしれない。それは後になってからわかるのかもしれない。
でも、それは権力者の思い通りにされた後にわかるということ。それに異を唱えたいなら今、自力で真実を見つけ、それを元に自分の意思を世界に提示していくしかない。
ここまでの考えが日常で起こりうるだろうか。
これがまさにドキュメンタリーがもたらす大きな気づきだ。
何気ない誰かのインスタやTikTokの投稿ではそんな感情や考えにはなかなか辿りつかないだろう。
質の良い本や忍耐力の必要なメディアに、スローメディアに、触れていくことはとても有意義で重要なことだと信じている。
とにかく、このソ連に関する2本のアーカイブ映像を用いたドキュメンタリーは忍耐力を要するものの、私は2020年、コロナによりマスクやワクチンを巡り〈同調圧力〉が問題視されていたり、中国により香港の民主主義が揺らいでる今だからこそこのドキュメンタリーは意味あるものだと思っている。
後編、アウステルリッツについてのレビューを書いていくとする。