社会問題の当事者を「自己責任」で片づけていいのか――こんな疑問を持っている人に知ってほしい映画監督がいる。御年83歳の巨匠ケン・ローチだ。映画を通して、社会問題が起きる背景を構造的に明らかにし、弱者の尊厳を取り戻す。(石田 吉信=Lond共同代表)
「わたしは、ダニエル・ブレイク」を最後に映画界からの引退を表明するも撤回したケン・ローチ監督が、イギリス・ニューカッスルを舞台に、格差社会の波に翻弄される「現代の家族の姿」を描いた最新作品が「家族を想うとき」だ。
マイホーム購入を夢見て父リッキーがフランチャイズの宅配ドライバーとして独立し、母アビーはパートタイムの介護福祉士として時間外も働き、息子セブと娘ジェーンが寂しさを募らせていくなか、リッキーがある事件に巻き込まれる、というあらすじだ。
原題の”Sorry We Missed You”は宅配業者の不在票の文言から取られていて、「あいにくご不在でした」といった意味。仕事に追われるあまり、配達人の父リッキー自らが自宅に留守がちになってしまう状況を皮肉っているようだ。または、宅配の文脈を離れるなら「あなたがいなくて残念」とも取れる。そう、もともと愛の繋がりのある家族なのだ。
不況により賃貸暮らしを強いられてしまったが、マイホームで家族と一緒に過ごし安定した生活を送り幸せになりたい。そんなささやかな夢のために自転車操業で懸命に働くことが逆に家族との時間を奪い、家族との関係を壊していく…という、現代の格差社会で生きる家族をまざまざと見せつけられる。
前作の「わたしは、ダニエル・ブレイク」もそうだが、ケン・ローチ監督は現代社会の構造的な問題に苦しめられる弱者を見つめ、彼らに寄り添い、静かな怒りを映画で表明する。横柄な権力者が出ているのも特徴的だ。
今作は前作の時に訪れたフードバンクに来ていた非正規雇用の人々、「パートタイムやゼロ時間契約で働いていた。いわゆるギグエコノミー、自営業者あるいはエージェンシー・ワーカー(代理店に雇われている人)、パートタイムに雇用形態を切り替えられた、新しいタイプの働き方をする労働者のことが、忘れられなかった」と語るように自転車操業で不安定の中生きる家族を題材に選んだようだ。
学がなくとも腕っぷしが強く真面目に一生懸命働けばそれなりに家族を養える時代は終わり、頭を使えないものはただ消費されていく時代にこれからのAI化で更に冗長されてしまうのか。
これを「自己責任」と片付ける風潮が日本にもあるが、システムそのものがおかしいのではないか、と社会全体に痛烈な疑問を投げかけるのがケン・ローチ監督だ。
前作でもそうだったが、ケン・ローチ監督は社会的弱者の尊厳をしっかり描く。我々がケン・ローチ作品に心を動かされるのもこの部分だろう。
一人ひとりに宿る「尊厳」はきっと普遍なるもので、それをないがしろにされることは「いけないことだ」と痛烈に共感させられるのだ。
この映画に救いを見出すとしたら、どんなに最悪な状況でも家族が側にいること。
まだこの家族は壊れていない。
反抗期の息子のセブもまだ取り返しのつくところにいる。最後に「昔のお父さんに戻ってよ」と切実に訴えるセブも幸せな時間が記憶にあるからこそ、家族が壊れていくのが辛いのだろう。
セブの非行は構って欲しさ故で、そもそも親から愛情を得られると経験し期待しているから起こす行動だ。子供の為に恥をかいてくれる、心配してくれる親がいるだけ幸せだという警察官の言葉はこの映画のこの家族に対する救いであり、また半面、シングルの家庭や、両親に助けてもらえない家庭、親の虐待が酷い家庭はこの映画よりも更に過酷な現実がある、と想像させる。
日本の都市も核家族化が進み、非正規雇用の問題もあり、シングルマザーの貧困率は先進国ワースト1位、児童養護施設には3万人を超える子供たちが親元を離れ暮らしているが入所の7割は虐待によるものだ。
全ては繋がっている。誰かの不遇は自分の豊かさの裏側にあるのかもしれない。自分の不遇に手を差し伸べてくれる社会であってほしくはないか。我々は生き方や大切にすべきものを再考する時代に足を踏み入れているのだと思う。
・「家族を想うとき」
石田吉信:
株式会社Lond代表取締役。美容師として都内3店舗を経て、28歳の時に異例の「専門学校のクラスメイト6人」で起業。現在銀座を中心に国内外、計19サロンを運営中。1号店のLondがHotpepper beauty awardで3年連続売り上げ全国1位を獲得。「従業員第一主義」「従業員の物心両面の幸福の追求」を理念に、70%以上という言われる高離職率の美容室業界で低離職率(7年目で130人中5人離職)を実現。また美容業界では未だほぼ皆無であるCSR、サステナビリティに向き合い、実践の傍ら普及にも努めている。instgram