東京電力福島第一原子力発電所のある福島県双葉郡大熊町。震災から11年、まだ帰還困難区域が多く残るこの町で、草を食べる牛の習性を活用して土地を維持し、さらに豊かに循環させる取り組みを実践する人がいます。原発事故後、避難指示が出され無人と化した町で、取り残された動物をなんとか助けたいと活動を始めた彼女は、必死の試行錯誤の中で牛の可能性に気づきました。(JAMMIN=山本 めぐみ)

牛の習性を活用し、土地を豊かに再生する

2メートル近くある荒れ地の象徴「セイタカアワダチソウ」を喜んで食べる牛の「ミルクティー」

東京電力福島第一原子力発電所の1号機から4号機がある福島県大熊町。この町に、東日本大震災を生き延びた11頭の牛たちと動物の習性を活用したエコモデルを実践する「もーもーガーデン(一般社団法人ふるさとと心を守る友の会)」があります。

代表で静岡出身の谷(たに)さつきさん(39)は、震災直後、被災地の牛や馬が餓死するニュース映像を見て、取り残された動物たちをなんとか救いたいと活動を始めました。

「農業や酪農で暮らしてきた人たちが着の身着のままで避難された後、飼われていた牛たちは水や食べ物をもらうことができず多くが餓死したり、町をうろついて側溝や沼に落ちたりして死ぬこともありました」

お話をお伺いした谷さん。もーもーガーデンにて、オスの「カール」と。「カールは、東日本大震災で牛舎の壁が崩れたために奇跡的に山へ逃げて生き延びることができた3頭の牛のうちの一頭を母親として生まれました。母親代わりに世話した私に非常に懐き、言葉を理解し、心配したり、甘えたり、すねたり、表情も豊かです」

「一方で人が消えた農地や山、人家の庭なども管理する人がいなくなり荒地化していました。本来人が居てようやくメンテナンスでき成り立っていたものが、人がいなくなった途端、荒れゆく一方になってしまったんです。牛たちにお腹いっぱい草を食べてもらい、彼らのいのちを守り、老衰で亡くなるまで終生飼養しながら土地をも生かす。震災のあった2011年の末からこの取り組みをはじめて10年以上になります」

牛がいることで、土地環境が改善される

もーもーガーデンにて、雑草を食べる牛たち。「地域の方々の大切なふるさとを守っている牛たちです。熊や猪等の野生動物から守り、生態系のバランスを整え、人と動物と自然が調和する空間になっています」

「生い茂る草を牛が食べることで、人の手が入らなくなった土地を良い形で維持するだけでなく、豊かに循環させて、新たなかたちで再生しています」と谷さん。「自然界のシステムは、動物がいて初めて成り立つものなのだということを実感している」と話します。

「荒れ放題の土地では背が高く生命力の強い植物が一帯を覆い、背の低い植物には日光が届かずに育ちませんでした。しかし牛が背の高い草を食べるようになったおかげで、多様性のある土地が蘇ってきています。牛が食べてくれることで、植物も生え変わりのサイクルを維持することができるのです」

同じ農地のビフォー・アフター写真(同じ位置からの定点撮影、牧柵杭と山の稜線が一致している)。「ビフォー写真の左側に、草の山に埋もれながら草を食べる牛の顔が見えます。牛の3倍の背丈のジャングルのような草木でも、田んぼ100枚分(1ヘクタール)の農地を、約1週間で平らげます」

「牛糞も大きな役割を果たしています。『施肥(せひ)』というのですが、微生物が発酵して栄養のある牛糞を、人間が手を加えずとも土地に施してくれて栄養分を与えてくれて、野菜や果実も豊かに育ちます」

「さらに牛が草を食べてくれることによって景観も良くなりますし、雑草が減るので病害虫の大量発生を抑える効果もあります。人間が知恵を使いながら、動物に幸せになってもらいつつ、人間にとっても持続可能かつ自然の恩恵をいただけるしくみ、人も動物も楽に豊かに生きられるしくみを追求中です」

人がいなくなった地域に取り残されてしまった牛たち

2012年、安楽死、捕獲枠の中で衰弱死した子牛。農家提供分

東京電力福島第一原発の事故の後、大熊町は警戒区域となり、立ち入りが制限されるようになりました。

「最初に電気が止まり、水も止まりました。そんな中、牛たちは町に置き去りの状態になりました」と谷さん。

「原発20キロ圏内にある牛舎で飼われ続けた牛で、生き残った牛はまずいないと思います。生き残った牛は、放牧形式で飼われた牛たちです。というのも、人間によって管理されていた牛舎の場合、給餌給水や掃除にもすべて重機やエネルギーが必要だからです。インフラが止まり、人の手が入らなくなった途端、生命の維持ができなくなってしまうのです」

谷さんは「残された牛をなんとかしたい」という地元の牛農家たちと支援のために何度も町に入り、牛たちの無残な姿を目の当たりにしました。

「餌不足のためガリガリに痩せても、まだ人を信じて懐いてきた牛です。冬に亡くなりました」

「ご近所に迷惑をかけないようにと牛舎につながれたまま、多くが餓死していました。ある牛は鼻緒がつながれたまま、鼻の下が40センチも伸びた状態で死んでいました。きっと苦しくて横になりたくても、つながれているからそれもできなかったのでしょう。一気に倒れた場合は鼻の部分がちぎれるはずなので、倒れたくても倒れられず、激痛の中で衰弱死していったことがわかります」

「別の母牛は、子どもにお乳をあげるためになんとか栄養をとろうとしたのでしょう。つながれていた場所のすぐそばの木の柱を懸命に歯で削り取った形跡があり、直径40センチほどある柱が、5センチほどまでに細くなっていました。いのちが尽き果てた母牛の隣で、母牛の思いが通じたのか、子牛はかろうじて生きていました」

「『福島、牛、餓死』等で検索すると画像がたくさん出てくるかと思いますが、『スタンチョン』という牛の首を挟んでつなぎとめる道具につながれたままで亡くなった牛もいました。飼い主の方が留まったり通ったりして餌や水を何とか与えた牛たちは、なんとかいのちを取り留めたものもいました。あるいは牛舎が崩壊して外に逃れることができた牛たちも、食べ物や水を見つけて生き残ることができたようです」

「本当に殺すしか選択肢がないのか」

もーもーガーデン最年長の「片美」。「片美は、ここ大熊町野上の牛舎で母親と一緒に飼育されていました。負傷し、片目・片角になりながらも何とか山へ逃げて一命を取り留めましたが、最愛の母親は2012年に亡くなりました。久しぶりに母親と暮らした牛舎へ戻った際、昔居た自分のブースへ入り、遠くを見て大量の涙を流し続けていました」

「何の罪もないいのちが苦しみ、うめいている。現場でこの状況を目の当たりにした時はショックでした」と当時を振り返る谷さん。

「ここまでひどい状況だとは予想しなかったのです。当初、私は東京で働きながら、休みをとっては福島に通うかたちで活動していました。被災地とそうではない地域のギャップも大きく感じていました」

「一頭でも多く生かせるために自分に何ができるのか。とにかく現場へ行って動くしかないと思い、農家さんと一緒に現地に入っては、バケツリレーで水や餌を運びました。ただただ必死でした。ただ、立ち入り禁止区域は滞在できる人の条件や滞在できる時間、人数も厳しく制限されていました」

「一時帰宅は2時間、2人まで。公益立ち入りの場合は6時間まででしたが、こちらも人数が限られていて、車と人については1ヶ月前の申請が必要だったため、物資の調達やレンタルトラックが使えずに苦労しました」

「限られた条件の中で、運び込める食料や水には限界があります。死ぬ前に1滴でも水が飲みたいと思っている牛に1滴の水をあげることはできるかもしれません。でも、生きていくためにはそれでは全然足りないんですよね。マンパワーの限界を感じていました」

一頭でも多く生かすために何ができるかと必死で答えを探していた谷さん。「実は当初、もっと早くに解決できるのではないかと思っていた」と話します。

「取り残されてしまった犬猫に関しては環境省や動物救援本部、他のNPOなども入って救護にあたっておられたし、日本には災害時の家畜の救護に関する法律があり、この状況に対し、政治的に何らかの対応がとられるのではないかと期待したのです」

「しかし、すべての党を回って現状を訴え、ご理解は得られたものの、未曽有の原発事故で日本中が放射能に恐怖しており、なかなか状況が変わることはありませんでした。唯一、震災から2ヶ月後の2011年5月12日に、『飼い主の同意があるものに関しては殺処分』という国の方針が出されただけでした」

「20キロ圏外の牛の避難ですらままならないなかで、立入制限のある20キロ圏内の牛を助ける方法は見つからなかったのだと思います。提示されたオプションは『安楽死』のたった一つだけ。本当にそうなんだろうか、本当に殺すしか方法がないのだろうかと。県や自治体も被災者なので、公助を頼れないのなら、自助でやるしかないと思いました」

牛が草をお腹いっぱい食べられて、土地も維持できる。落合先生との出会い

大熊町野上姥神の棚田。「この地区のご先祖様たちが一枚一枚石を並べて造り、天保や天明の飢饉も乗り越えて連綿と維持してきた美しい農地が姿を現しました。まろやかな夕日に照らされる帰り際に見られる光景です」

2011年秋、どうすれば牛も人も幸せになれるのだろうかと模索し続けていた谷さんはある時、「牛のいる場所だけ、土地が荒れていないことに気がついた」といいます。

「人がいなくなった後、震災後1年経たずして周辺はどこも草木が生い茂ってジャングルのような状態だったのですが、牛のいるところは草が低く見晴らしも良くすっきりとしていたのです。それで、この方法で何とかできないかと」

「牛が草を食べ、農地や庭が出現し、旧トロッコ道も出てきました。もともと農耕畜として牛や馬と共存していた地域でしたので、馬頭観音様の石があちらこちらに出てきました」

「調べると、牛に雑草を食べさせて健康になってもらいながら、耕作放棄地を解消するという手法を唱えて活動されていた、放牧アドバイザーの落合一彦先生という方がいることを知りました。すぐに連絡をとると、福島まで駆けつけてくださったんです」

「『立ち入り禁止区域でなかなか通えず、牛たちは食べ物や水が足りていない。農家たちは泣いています』と先生に現状を話し、『雑草を食べさせて牛たちは生きられますか』と尋ねると『できますよ』と言ってくださったんです。まさに希望の一言でした。先生に候補地を見ていただき、井戸水のあった場所を最初の放牧地として整備し、生き延びた牛たちを集めて放牧を開始しました。2012年の2月でした」

循環の中に立ちかえり、共に豊かさを手に入れる

牛が雑草を食べることによって生き返ったキウイの花。「キウイは『一度食べたらもうスーパーのキウイは食べられない』というほどおいしい大熊町の元特産品でした。震災後、キウイ棚は草と蔓藪と木に覆われ、重さで崩落して息も絶え絶えになっていましたが、再び可憐な花が満開になるまでに。出荷はできませんが、実もつきました」

それから10年。現在も大熊町で牛たちと活動を続けている谷さん。

「目には見えない、それでも地球を動かしている大きな循環があるのだということ、その中を生かされているのだということを、牛が私に教えてくれました。家族や仲間が目の前で人間に殺されるのを見たりして、最初は警戒心を抱いて寄ってこなかった牛たちも、大丈夫だよと話しかけたり背中を見せたりしながら少しずつ信頼関係を築いていきました」

人が手をかけないと生きられない花の代表格、バラ。「全滅したと思われていたバラも実は生きていて、牛が雑草を食べたことで、息を吹き返しました。バラをはじめ様々な花が大輪の花を咲かせました」

「2013年には、放射線量は低くても誰も入りたがらなかった大熊町野上で、私が責任者となって活動を始めました。新たに区画を作っては牛たちが食べ、その速さやきれいにすっきり食べることにも驚き、さらに翌年やその翌々年、死んでいたと思われた生物たちが生き返る様子を見ても驚かされています。そして年を重ねるごとに、土地がまるで草原のように美しくなります。牛たちにいつも驚かされています」

「自然、その中にある循環を取り戻すことができたら、人も動物も、きっと楽になれるのではないか。循環の輪の中にもう一度、それぞれが立ちかえっていくだけで、もしかしたら私たちは共に豊かさを手にできるのではないか。そんな気がしています」

団体の活動を応援できるチャリティーキャンペーン

チャリティー専門ファッションブランド「JAMMIN」(京都)は、もーもーガーデンと3 /28〜4/3の1週間限定でコラボキャンペーンを実施、オリジナルデザインのチャリティーアイテムを販売します。

JAMMINのホームページからチャリティーアイテムを購入すると、1アイテム購入につき700円が団体へとチャリティーされ、もーもーガーデンの牛たちのために活用されます。

「JAMMIN×もーもーガーデン」1週間限定販売のコラボアイテム。写真はTシャツ(700円のチャリティー・税込で3500円)。他にもパーカー、バッグなど販売中

JAMMINがデザインしたコラボデザインには、自然と共に生きる牛の姿を優しいタッチで描きました。穏やかでリラックスした表情の牛を中心に豊かな自然を描き、牛がいることで自然の調和が整い、いのちが循環する様子を表現しました。

JAMMINの特集ページでは、インタビュー全文を掲載中。こちらもあわせてチェックしてみてくださいね!

原発20キロ圏内の町で、震災を生き延びた牛たちと人も動物も自然も豊かにする「持続可能」な暮らしを発信〜もーもーガーデン

山本めぐみ(JAMMIN):
「JAMMIN(ジャミン)」は京都発・チャリティー専門ファッションブランド。「チャリティーをもっと身近に!」をテーマに、毎週さまざまな社会課題に取り組む団体と1週間限定でコラボしたデザインアイテムを販売、売り上げの一部(Tシャツ1枚につき700円)をコラボ団体へと寄付しています。創業からコラボした団体の数は400超、チャリティー総額は7,000万円を突破しました。

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