日能研の高木幹夫代表は、『予習という病』(講談社現代新書)で詳述しているように、予定調和に重きを置き過ぎると、想定外への対応ができなくなると説く。だがこれは子どもたちだけの話ではない。日本全体が、津波や原発事故に対応できなかったのは記憶に新しい。では、どうすれば良いのだろうか。(聞き手=オルタナ編集長 森 摂)


「エンデの遺言」に隠されたカードとは


高木幹夫: 僕は今、ギリシャの経済状況が一番気になっていて。最後のカードがめくられるのか、という感じがちょっとしています。ここまで隠し続けてきたことがもう隠しきれないっていう状態になってきた。

森 摂: そのカードとは何でしょう?分かるような気もしますが。

高木: 僕たちが知らないところで、一生懸命真実を隠そうとしている最後のカード。なんだろう。もうずいぶん昔ですよね。「エンデの遺言」にもありました。

実際に動いているお金には、生産と相殺できるお金、労働と相殺できるお金がある。そして利子があります。この利子が生産と相殺できるお金を超えました。労働と相殺できるお金ももう超えるでしょう。

そうすると、この資本主義社会はどうなっていくのか。それでも労働が価値の中心にあればどうにか続くということだったんでしょうが。ヨーロッパの底力はすごいと思いますが、どうも労働とそぐわない世界なのではないかと。だからこそ文化にはすごい力があると思います。

高木:ギリシャもIMFの配下に入って、EUから切り離されるでしょう、最悪は。そんなことが始まったときに、今どうにかしようと抑えている作用のカードがね、もうどうしようもないことになってしまうのでないかを憂慮しています。

「利子は未来へ問題を先送りしています。このまま利子が膨れ上がってゆくとしたら、計算上遅かれ早かれ、大体2世代後に、経済的な破滅か、地球環境の崩壊かのいずれかへと突き当たります。それが根本問題です。信じる信じないの問題ではなく、だれでも、コンピューターがあれば、計算できることです。」(マルグリット・ケネディ――「エンデの遺言」から)


「予習」では想定外に対処できない


森: 先ほど「エンデの遺言」の話がありましたが、先日、城南信用金庫の吉原理事長とのインタビューでも、ミヒャエル・エンデの「モモの話が出ました。「お金は人類が生み出した最大の幻想であると。他の人が言うならまだしも、金融機関のトップがこういうことを言うのは衝撃でした。

高木さんの本も読ませて頂き、感じたのですが、子どもたちだけでなく、大人たちも、「予習していないこと」「想定外のこと」が起きた時に対応できないのが問題ですね。原発事故も地球温暖化もそうです。

高木:そうです、そうです。予習というのは想定外が無いことが前提です。例えば「ロボット三原則」というものがあります。

第1条:ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、人間に危害を与える危険を見過ごしてはならない
第2条:ロボットは人間の命令に従わなくてはならない。ただし第1条に反する場合はこの限りではない
第3条:ロボットは第1条、第2条に反するおそれがない限り自分を守らなければならない
(アイザック・アシモフ「ロボット三原則」)


でも、この三原則を完璧に守ったらロボットは動けないとも書かれていました。いつ何が起こるか分からない。次に何が起きるかなんて分からないのに、人間を守らなければならない。

でもロボットは自分の持っている演算能力の全部を使ってもそんなことはできない。そのバランスをどう取るのか、がロボット工学の絶妙で不条理なところだそうです。

森: それは原発も同じですね。

高木: 「絶対に安全でなくてはいけない」を前提にすると何も出来なくなる。予習とはまさにそういうことです。僕は原発に対して熱烈な反対派ではないのですが、やはりこれから先に必要な理由が分からない。

そもそも原発はサイエンスなのか、それとも工業なのか。僕にはそこも良く分からない。サイエンスの一過程に原発があるなら、その中で生まれた課題は乗り越えなければいけない。でも、原発が単なる工業であれば切り捨てても問題はないはずです。

森: その後には、軍事利用もあります。

高木: 軍事は政治の範疇だから、科学とは何の関係もありません。ただ、どう見ても原発はサイエンスに見えない。原発が科学の発展のために寄与するとは思えない。その辺りが良く分からないところです。


科学くらいいい加減のものはない


森: 代表が批判しておられる「予習の話で改めてお伺いしたいのですが、原発の前に気候変動の話がありました。ここ十数年は世界でも日本でもCO2を削減しようと交渉されてきました。

地球温暖化は本当に人類の経済活動によるものか、という命題があります。牛のゲップのせいだという人もいますし、あるいは海水から溶け込んだCO2が放出されているという説もあります。またはCO2の濃度とは関係なく太陽の黒点活動の影響だと言う人もいます。

高木: 科学くらいいい加減なものはありません。科学というものは、分からないものの領域に足を踏み入れていて意見を言うわけだから、未知の領域の研究をしている科学者ほどいい加減なことを言う人はいないというのは現実的に当たり前の話です。

森: この3-4年で確信を深めたのは「地球が温暖化しているかどうかは分からないという考えが最も真っ当ではないかと思います。人類はわずか400年前まで、太陽が動いているのか地球が動いているのか分からなかったわけです。

近代合理主義の限界という話にも通じるわけですが、今科学が発達したと言っても温暖化しているのか、寒冷化しているのかというのは分からないというのが最も穏当であり、自信を持って「自分は正しい、あなたは間違っている
という人ほど怪しいと思えてきました。

高木: そう、どこを見るかですね。僕はCO2を削減しようという運動には乗ってもいいと思っています。温暖化の原因を明らかに証明ができるまで何もしないのではなく、その可能性があるのであれば舵を切る、という立場をとりたいのです。

「大気中の二酸化炭素、メタン、一酸化二窒素の濃度は、産業革命前よりはるかに高くなっている。二酸化炭素の増加は、主に人間による化石燃料の使用が原因である。20世紀半ばから見られている平均気温の上昇は、人為的な温室効果ガスの増加によるものである可能性がかなり高い(気候変動に関する政府間パネル・第4次評価報告書から)


森: しかも、今まで原発はCO2削減で大きな役割を果たしてきた、とされていた。大きな矛盾をはらんでいます。

高木:本当にそうなんでしょうか?別の意見もありますよね。その上で、どこかで舵を切るべきです。CO2を減らすことにしてみようじゃないかと。そうすると、ものを考える枠組みや自分の生活が違って見えてきます。ああ面白いじゃないかって。

何かを我慢するという過去に戻る前提ではなくて、もっと工夫ができるのだと思います。工夫で考えていけば別段なんということは無い。それぞれの問題をしっかりと論じる切る力を持たなくても、CO2を無くせるような工夫をすることにしてみようよ、と。

そしたら何が起きるのだろうか、という話の中で、いろいろな問題がテーブルの上に乗るような気がします。もちろん、だからこそ議論が百出して上手くいかないという面もあります。


「答え」がいつもあるとは限らない


森: ここで一つ面白いのは、この問いにはひょっとしたら答えがないかもしれない、あるいは「分からないかもしれないというスタンスです。代表も常々、「答えがないことも大事だ」と仰っていますよね。

高木: 元々、「答えというのは、「問い」を作った人が、「問い」とセットで作ったものです。「問い」を与えてもらうからこそ「答えが存在する。自分が「問い」を作ったら「答え」など与えられるわけないから、どこまで行っても自分が「これが答えだという以外には答えはない。みんな「問い」を与えられることに慣れ過ぎているのです。

森: それはテレビのワイドショーであり、クイズ番組ですよね。そして僕らは社会人として、市民として、常に「問い」には「答え」があるものだという一種の暗黙の了解、思い込みがあります。

高木: それは日本では仕方がない。子どもの時からそういう生活しているのですから。やはり子どもにとって教科書というのは正しいものなのです。そこに書いてあることは疑わない。

そんな勉強の仕方をしていて、僕がいま言ったようなことは普通ありえない。でも日能研では子どもたちに「いいか、答えというのは問題を作った人が作ったものなんだからね。何でそれが絶対に正しいと決めるんだ?」と言っています。

森: それは大人たちも同じだと思います。会社でも先輩や上司が、マニュアル通りにやれと教えます。しかし、いま日本で起きていることは、今までの価値観で本当にいいのかが一人ひとりに突きつけられているのです。

最近、東日本大震災がらみで「私たちに出来ること」「できることからコツコツと」という言い方をよくCMやメッセージなどで使います。震災が起きてから、やけにこのフレーズが増えたと感じます。

高木: それは愚民化政策でしょう(笑)。要は自分のことだけ見てろと。原発をどうするかなんて遠いことは考えてるんじゃない!震災の復興計画は政府がやるんだから考えなくて良いっていうことでしょうか。


バックキャスティングに向いていない日本


森: そう、日本人は長期的な未来ビジョンを決めて、そこに至る道筋を付ける「バックキャスティング」的な思考は向いてないのでは、と思います。

高木: 向いてないですよ。明確に言いますが、日本文化は「目的指向性が極めて低いと思います。自然とともに「今」を生きていくというスタンスに対して、バックキャスティングにある根っこは、揺るぎない目標を作ることから始まります。元々そういう習性を持っていないので、難しいですね。

ただ同時に子どもたちには、日本文化に見られるような、「それもある、これもある」という多様性を認める目を持って欲しいと思います。「受験は立派なバックキャスティングです。その中で、子どもたちにはバックキャスティングという言葉も感覚も体験してもらいたいのです。

目標を持つ意味やそれを達成するために計画を立てること、もし計画が達成できなかったらどう建て直して目標にたどりつくかという手法を子どもたちに教えていきたいのです。

【バックキャスティング】将来を予測する際に、持続可能な目標となる社会の姿を想定し、その姿から現在を振り返って今何をすればいいかを考えるやり方。目標を設定して将来を予測すること。地球温暖化のように現状の継続では食糧不足などの破局的な将来が予測されるときに用いられる。


森: 日能研では「バックキャスティング」という言葉を使っているのですか?

高木: はい、使っています。

森: 子どもたちは理解はされていますか?

高木: 彼らは、初めて出会う言葉と当たり前に生活する年齢です。国語で、これ新しい言葉だね、使ってみようね、って毎日やっているわけですから。

森: 逆に、いいおじさんたちは「バックキャスティング」は有言不実行になりかねないので、嫌いです。「やる」と言ってできないのは許せないわけですね。

高木: 日本人は「できるんだよ」「やるんだよ」という言い方に対して無責任だと思ってしまう。でも特に欧州の人たちはまず「目標」を決める。そのための調査もする。目的の適切性も明確にした、目的は決めたんだから達成するんだ、となるわけです。

森: ところが日本人は「できるかできないか分からない」「出来なかったらどうするのだ」という発想が多い。原発事故後の自然エネルギー政策もそうでした。

高木: 出来るか出来ないか分からない時に、出来ることを作っていくのがサイエンスなわけです。日本人の発想では「出来るか出来ないか分からないときにやっても仕方がない」となる。

やらない方を選んでいくと今回の原発問題になるわけです。出来るか出来ないか分からないから、やれる方をやってみようという方法を選べば事故は少なくなっていくわけです。

森: そして、自然エネルギーはコストが高いとか、当てにならないとか、今の電力会社の系統には合わないといった色んな批判がありました。今年ようやく自然エネルギーの推進法案が通り、来春から仕組みができますが、電力会社だけではなく日本人の大半が「エネルギーの仕組みを根本から変える
ことに不安を感じています。

高木: どうして原子力発電所をやらないと原子力の技術が発展しないのかという意見がとても不思議です。世界に何百基ある原子炉はどんどん老朽化していくのです。それをしっかり止めるだけの技術を確立して行けばよい。

日本は原子炉を輸出するのではなくて、「原子炉を廃止する技術を輸出できる国になろうと、大きな予算を付ければ良かったのです。原子炉の開発と同じだけのお金を使えば、科学技術は発展するはずです。

森: それは面白いですね。やはり今までの流れを変えていくことに不安に抱いている人が多いのでしょうね。ご飯を食べられなくなるとか。

高木:そういう人は、100%とは言わないけど、6-7割の人たちの居場所はあると思います。それは政治の問題だと思います。

森: 僕は原発事故が起きた直後は少し楽観的で、「これで日本は大きく変わるという予感がありましたが、半年あまり経った今は、前ほど楽観的ではなくなりました。

高木: 僕はずっと悲観的です。ただ分からないことなんでね。悲観のしようがないのですが。


自然エネルギーの技術革新に期待


森:その悲観的というあたりをもう少し詳しく教えてください。

高木:だって原発事故で拡散された放射能と、ずっと一緒に生きていかないといけないでしょ。この放射能がどれだけ遺伝子を傷つけるかわからないし、遺伝子を傷つけるかもしれないものが放射能だけじゃない世界で生きているわけですから。それこそ「複合汚染
の中にいるわけです。

森: 僕がさっき楽観的と申し上げたのは、「これで日本は変われるんじゃないかと。原発はCO2の削減にも良いじゃないかという論調の中で、たった半年前までそういう中で原発を増やしていこう、エネルギーに占めるシェアも高めていこうという動きが変わるんだという直感を事故直後はもったんですね。

その意味で楽観的だったのです。ところが当時、「新設はもう無理だという話が出てたのですが、最近の野田首相は「新設も場合によっては考えられる
という話になってきた。

特に建設が進んでいる青森の大間などですね。そうなると、また原発が日本で増え始める可能性があります。どうしてドイツとかイタリア、スイスでできたことが日本では出来ないのでしょうか。

高木: 僕もある意味での期待値は持っています。技術の加速が始まるという期待値です。確か5月ごろにマイクロ水力のためのタービンの形状で、今までより30%以上能率の高いというタービンが出てきました。

また、実用化されれば従来の何十倍という太陽光発電の素子も出てくるようです。原子力発電そのものと、発送電が一体ということ自体が、自然ネルギーという話の中で揺さぶられているわけです。

自然エネルギーなど、主要な発電技術以外の発電技術が今までは抑えられてきた。それが今元気になってきた。そこが技術加速していけば良い。そういう期待感はあります。

森: 今まで自然エネルギーの日が当たらなかった部分がちゃんとこれから日が当たっていくかどうか。最近の巻き返しを見ているとちょっと大丈夫かな?と。自然エネルギーの全量買取りの価格もまだ決まっていません。これから国を変えるには相当なエネルギーがいるでしょう。

森: 変わらなくてはならないのは子どもや若者たちではなく、中高年ではないかと思います。

高木: そうですね。世界のどこ行っても、環境に関して一番真剣に考えているのは子どもたちですからね。

森: 環境もそうだし、いま若者たちの間で「ソーシャル」「エコロジカル」「エシカル」などに若い人たちの目が向いています。いま、先が読めない不安な時代なのに、若い人たちが「世の中を良くしよう、貧困をなくそう、障がい者と一緒に働こう」などと言い出したわけです。

これはある意味、興味深いです。昔の豊かな時代に、全共闘とか警官に石を投げて燃えた世代がいて、あるいはオウム真理教とかカルトに走る若者たちがいた。これももしかしたら恵まれていた時代だからこそ起きたのかもしれない。

今は決して恵まれた時代ではないのだけれど、その中で世の中を良くしようとか、地球環境を守ろうとか、そうした意識が高い連中が増えていることは奇跡なのかもしれません。

ところが、若者たちが企業に入って「CSRをやりたいとか「ソーシャルビジネスをやりたい」と言うと、上司が「お前、CSRじゃ飯は食えないんだぞ」と言いつつ、実業の世界に取り込んでいくわけです。

高木: そこはボタンの掛け違いでしょう。大学にも問題はありますよね。CSRを切り離した一部だと、いわゆるフィランソロピーと同じような、メセナと同じという見せ方をしているのであれば、そのことに問題があります。

【フィランソロピー】
基本的な意味では、広く人類全般に対する愛にもとづいて、よいものを広めたり、クオリティオブライフ(QOL)を高めたりすることを目的とした、利他的・奉仕的な活動全般を指す。あるいは慈善的な目的を援助するために、時間、労力、金銭、物品などをささげる行為のこと。
【メセナ】
企業が主として資金を提供して文化、芸術活動を支援すること。人材や施設など、資金以外による支援も少なからず行われている。1990年代に日本で流行した言葉。


CSRとは、別段そういうことをしなさいと言ってるわけじゃない。企業が存在するということそのものがCSRとどのようにつながっていくのか。実業の部分がCSRになっていかなければいけないわけですね。なのに学校もそれを教えられていません。

森: 大学でもちゃんとした理論構築もできていないし、まだ学問としても非常に浅いところもありますね。


「白票」を数えれば、選挙が変わる


高木: だから立教大学がESD(持続可能な開発のための教育)とCSRを同じところに置きましたね。あれが一つの形だと思うんです。持続可能性に対してちゃんと本業が何かをすること。これがまさにCSRです。

教科書でしか勉強をしたことのない大人が、教科書以外で持続可能性ということに対していろいろ考えられるようになって行かないと、社内の実業がCSRになって行かないわけですね。

森: ESD-Jはやはりどちらかというと若い人たち向けですよね。子どもも含めたね。でも本当に教育が必要なのは中高年ではないかと思います。

ESD-Jは、2005年から始まった「ESDの10年」を追い風として、市民のイニシアティブで 「持続可能な開発のための教育」 を推進するネットワーク団体。ESDに取り組む、NGO/NPO・教育関連機関・自治体・企業・メディアなどの組織や個人がつながり、国内外におけるESD推進のための政策提言、ネットワークづくり、情報発信を行っている。


高木: 教育をしている人間にとっては、この子たちが自分の未来を変えられる力を持って欲しい、と思っています。この子たちが変える力を持っていますよ、と言いたいのです。

大人が変わるというテーマで考えれば、僕は、選挙で「白票率を発表してもらいたいのです。今は白票を入れると無効投票です。無効とは名前を間違えたとか、字が紛らわしいとか。でも、「白票」は「意志」なのです。

全政党に対するNOなのです。白票が「意志としてきちんと集計されるなら、棄権しないで自分の意志を表明しに行けば良い。白票をカウントするから白票を入れに行こうという仕組みができれば、日本の中高年も変わるかもしれない。 

投票率が上がらないのは、投票で嫌でも誰かを選べというからでしょう。嫌だと言うなということです。白票を無効投票ではなくて、白票としてカウントすれば良いのです。「白票さえあれば、今ある様々な運動はもっとパワフルになると思っています。

投票率が上がらないのは、投票で嫌でも誰かを選べというからでしょう。嫌だと言うなということです。「白票さえあれば、今の運動はもっとパワフルになります。白票を無効投票ではなくて、白票としてカウントすれば良いのです。