フィンランドにある世界初の高レベル放射性廃棄物の永久地層処分場「オンカロ」。ここが映画「100,000年後の安全」の舞台だ。固い岩を削って作られる地下都市のような巨大システムで、10万年間保持されるように設計されている。
監督のマイケル・マドセンは既に建設が進行中の施設に自ら潜入し、この映画をつくった。同監督に、作品に込めた思いと外国から見た日本の現状について聞いた。(聞き手・編集部=赤坂祥彦)
――「オンカロ」を舞台に映画を制作した理由は。
オンカロは10万年維持されるように設計されています。人類史上、このような建造物は存在したことがありません。中世に建てられた大聖堂やピラミッドは宗教的な要素を含みます。核廃棄物を処理するために、10万年という歳月を見越して建てられているという点に一番、興味をひかれました。これまでの人類にとって全く新しい存在だからです。
――「核廃棄物に対する一番の脅威は人間の好奇心だ。本質的なもので、抗いようがない」というセリフがあります。意図を説明していただけますか。
人間の行動は予測できないということです。オンカロがいくら頑丈に設計されていても、そこには好奇心に突き動かされる人間の行動が考慮に入れられていません。100年後の人類が、埋めた廃棄物を誰も掘り起こさないとは限らない。現に、技術を進歩させて核廃棄物をコントロールしようとする人もいます。
その証拠にオンカロには裏口が設けられている。必要になれば、核廃棄物を取り出すためです。原子力産業に関わる人間にとって、核廃棄物はそれほど価値があるのです。私たちにとっては廃棄物でも、彼らにとっては宝なのです。
■ 人間は善と悪の間で揺らぎ続ける
――好奇心も人間の本質的な部分ですが、利他的な欲求も人間の本質的な部分だと思います。人間のどちらの資質に賭けているのでしょうか。
私は好奇心を否定するつもりはありません。好奇心は多くの発明を生み、それにより人類が教授した恩恵は測り知れません。ですから、好奇心と利他的欲求を比較して善悪と区別することはできないと思います。私がいえることは、人間は非常に揺らぎやすい存在ということです。善でも悪でもありません。その間で常に揺れ動くのが人間だと思います。
――全編を通して、映像では現実が淡々と切り取られていますね。
環境ドキュメンタリーにありがちな「物を教える」という姿勢が好きではありません。観客は賢いと信じています。ですから、答えを提示することではなく、質の高い質問を投げかけることを心がけました。
「悲惨な現実を美化している」という批評もあります。しかし、私はこの映画が何十年後に見られても観客に何かを訴えかけるものに仕上げるつもりでした。そのために、主観的な表現を極力、排除しました。表現が時代性に左右されないことも強く意識しました。その結果が、あなたにとっては「淡々」と映ったのかもしれません。
――批判の対象になるほど美しい表現にこだわった理由を教えてください。
モーツァルトのレクイエムは「死」を扱っています。それでも、美しいでしょう。それと同じことです。扱う内容は深刻ですが、それをうまく伝えるにはどういう表現が適切なのかを模索した結果です。
この映画はオンカロに捧げたレクイエムです。遠い未来を生きる人びとがこの映画を見ることも意識しました。放射線量を表す数字や化学式だけの記録では私たちの感情を伝えることはできません。
――「暗闇」の場面を多用していますね。
闇は「核廃棄物」と「10万年」という単位の象徴です。なぜなら、どちらも人類にとって未知のものだからです。火を扱うことを覚えた人類は暗闇に潜む怖さを克服しました。しかし、原子力は私たちが手にした「新しい火」です。その副産物である核廃棄物を私たちは持て余しています。それは私たちを覆う新しい暗闇なのです。
■ 日本に最終処分場は作れない
――原発事故から半年以上たっても、日本では、核廃棄物の処理が思うように進んでいません。
取材で話を聞いた多くの研究者が口を揃えて言っていたことがあります。それは「最終廃棄物の処理場を作れない国が1つだけある。それは日本だ」ということです。地震も火山もある。それがチェルノブイリと日本の最大の違いです。外国人の私から見ると、福島の原発は地上にあるオンカロそのものです。埋めるにも地盤が安定していない。
日本が置かれた状態は、例えるなら、中華料理のレストランにある回転式の円卓の上に放射性物質の入った容器を置いて回しているようなものです。いつ中身が溢れてもおかしくありません。
「100000年後の安全」映画公式サイト