「3・11」に降っていた雪はやみ、翌日の福島は青空が広がっていた。福島の多くの人にとって、原発が最初に爆発した「3・12」がすべての始まりだ。そして1年がたってなお、状況は深刻さを増している。放射能という見えない敵と「折れそうな心」との闘いだ。

福島市松川町の仮設住宅。計画的避難区域に指定された飯舘村の村民約200人が入居している。長泥や蕨(わらび)平など、村南部の放射線量が高い地区に住んでいた人たちだ。

飯館の村人が入居する福島市松川町の仮設住宅

「8割が高齢者、4割が一人暮らし。ほとんどが農家です。農業に定年はないですから」。仮設住宅の管理人、佐藤美喜子さんが説明してくれた。

避難生活が長引き、お年寄りたちのストレスは限界に近いほど高まっているという。

「ここでは草むしりもできない、土もいじれない。隣の物音が聞こえる生活なんてしたことがない人たちばかりです。どんどん笑いが少なくなってきています。見た目は笑ってるように見えても、腹の底から笑ってるわけじゃない。みんなで何とか支え合って過ごしている毎日です」

あるおばあさんは小さなプランターにビニールをかけて、ビニールハウスでやっていたように野菜を育てている。

仮設のお年寄りが手作りする和紙の工芸品。左奥が管理人の佐藤美喜子さん

「本当に『までい(丁寧)』に、野菜が育つ感触を求めて。農業は自分の土地でやるもの。単純に他の農地を与えられてやれるというものでもないんです。本当に、単純なことじゃない…」

佐藤さんは涙で声を詰まらせた。

「先が見えないだけに、これからどうするのと聞かれても何も言えません。今をどう元気に暮らすかしかない。心が壊されるだけに、前向きにと言われても、どっちが前なのかもわからない。そんな中で、孤独死や事故だけは止めたいと思って見守っています」

佐藤さんの指導で、この仮設のお年寄りは和紙を使った盆や手提げかごをつくっている。こうした手作り品を販売ルートに乗せて、生きがいと生活の糧を得てもらうという支援が他の被災地では進んでいる。私が訪れたのも名古屋や岐阜、大阪からそうした支援を探る人たちに同行してのことだった。

しかし、ここのお年寄りたちは売らなくてもいい、と言う。「あるていど補償金をもらってるのに、さらにお金をもらおうとするなんて申し訳ない」という思いからだ。ここにも、一筋縄ではいかない福島の人の現実があった。(オルタナ編集委員=関口威人)