渡邉さんの想いを元に始動したプロジェクトだったが、発売に至るまでの約一年間には、色々な繋がりや想い、そして人生を掛けたドラマがあったのだ。
「ツバキの実の中にある種を搾ると、油を採ることができる」と先述したが、東北で椿油を専門にした製油所は、一軒しかなかった。ある日、被災地から東京に帰る電車の中で、渡邉さんは一つの新聞記事に出会った。
それは、東北で唯一椿油を搾っていた石川製油所が、廃業を決めていたところに、陸前高田市米崎町にある就労継続支援B型事業所「青松館」が、製油技術の継承を申し出たという記事だった。陸前高田市気仙町の同製油所は、東日本大震災の津波の被害に遭い、施設や機械がすべて流されてしまったのだ。
そして、代表の石川秀一さんの長男で、後継者でもあった政英さんも津波の犠牲となった。製油所と息子を失った石川さんには、もう施設を立て直して再開する気力は残っていなかった。
新聞の記事を読んだ渡邉さんと一緒に活動している佐藤武志さんは、すぐに青松館に連絡をし、渡邉さんの想いやプロジェクトについての話をした。そしてその後、石川さんにもお会いしてお願いをしたが、石川さんの心はすぐには動かなかった。何度か断られながらも話をし続けた結果、ようやく石川さんが首を縦に振ったのだ。
そこには「本当は続けたい」という石川さんの想いがあった。話をしながら石川さんの想いを分かっていたからこそ、佐藤さんは何度も石川さんに話をしに行ったのだ。「男性だからこそ、見抜ける想いなのかもしれませんね」と、渡邉さんは当時を振り返った。
施設や機械は流されてしまったが、青松館が製油技術を継承することとなった。中村浩行館長が「引き継がせて欲しい」と申し出てくれたのだ。今では同館に機械を導入し、施設職員の清水卓さんが石川さんの指導を受けている。
■気仙椿ドリームプロジェクトのこれから