「10年間アメリカ極悪刑務所を生き抜いた日本人」――前代未聞の経歴を持つ男が、非行に走る若者の悩み相談に乗っている。井上ケイさん(52)は、ヤクザだった29歳のとき、ハワイでFBIに捕まり、10年以上、米刑務所で過ごした。ヤクザと縁を切ったケイさんは、「親に捨てられ、行き場を失った子どもたちの悲痛の叫びは誰が受け止めるのか」と訴える。(オルタナS副編集長=池田真隆)
” open=”no” style=”default” icon=”plus” anchor=”” class=””]ケイさんは、1961年に東京・中野で生まれ、親の愛を知らずに育てられる。「父親の記憶はまったくない」と話し、母親からは、「松本というアナウンスが流れたら降りろ」とだけ言われて、当時7歳だったその少年は一人で電車に乗せられて親戚に預けられた。
10代で非行に走る。暴走族になり、ヤクザになった。ヤクザ時代には、商売が相次いで成功し、サイパンにコンドミニアムを所有するほど巨額の富を築く。しかし、29歳のとき、弟分に裏切られ、ハワイで麻薬の密売中にFBIのおとり捜査にはまってしまう。そこから、壮絶な刑務所暮らしが始まった。
「アメリカの刑務所は、日本とは全然違う。売春も麻薬の取引も自由に好き放題できる」とケイさんは語る。刑務所で働く監視官は低賃金であるため、囚人から口止め料をもらい生活の足しにしていたのだ。
しかし、自由であるがゆえに、危険過ぎる場所である。黒人系、白人系、中国系、イタリア系など、人種間の違いによる抗争が起き、毎日のように殺人事件が起きていた。
「刑務所で殺人事件が起きても、すでに囚人たちは終身刑が科せられているので、刑期の延長が付いても痛くもない」と説明する。刑務所では、ケイさんも襲われることがあった。今でも、おでこには5キロのおもりで殴られ、骨が陥没した傷跡が残る。
しかし、襲われても、監視官に助けを求めはしなかった。「助けを求めてしまうと、ずっと弱虫のレッテルを貼られたまま刑務所内で過ごすことになり、周りからなめられてしまう」からだ。いくら怪我をしても、屈強な外人たちに立ち向かった。
あるとき、刑務所内で最強と言われるメキシコ系アメリカ人グループの「チカーノ」のビックホーミーと呼ばれるボスに認められる。こうして、ケイさんはチカーノの仲間たちと家族同然の関係を築き上げ、刑期を務め上げた。
2001年、刑期を終え、日本に戻った。ヤクザとは縁を切ったが、チカーノとは関係が続いている。チカーノの文化は、「仲間思い」と話す。「日本のヤクザとは違い金では動かない。とても貧しいが、家族・仲間思いの奴らだ。仲間のためには、自己をも犠牲にする」。
「家族」や「仲間」についてチカーノから学び、絶縁していた母親とも向き合えた。現在は、平塚でチカーノ系ファッションブランドショップ「HOMIE(ホーミー)」を経営しながら、ボランティアで非行に走る子どもたちのカウンセリングを行う。
なぜ、ケイさんは子どもたちのために動いたのか。それは、「若い頃から、お世話になっていたある刑事のおかげだ」と話す。ケイさんは、日本に帰国してから、その刑事に挨拶に行った。ケイさんが暴走族時代に補導され、以来、事件を起こすごとに説教をくらった刑事である。
ケイさんがアメリカ刑務所にいたころも手紙のやりとりを続けていた。「おれが、アメリカにいたころに、息子がグレてしまった時期があった。母親では、手をつけられようがないから、その刑事に、『息子を頼む』と手紙を出したのが始まり」と。
日本で会ったとき刑事から、「これからどうする?また、ヤクザに戻るのか?」と尋ねられると、「ヤクザになる気はないです」と返した。すると、「だったら、これからは世のため人のために生きろ」と説教を受けた。
刑事からそう言われたが、社会のために何をすれば良いのかまったく分からなかった。
ちょうどその頃、ケイさんは、自身の生い立ちをまとめた自伝本やDVDを出していた。すると、その影響でケイさんのSNSに若者や保護者から、相談が殺到するようになる。1日に、100件来る日もあった。今でも、週に50件は来ている。「警察や行政、学校の先生には相談できない子どもたちからの悲痛の叫びが届けられる」と話す。
親に捨てられた子どもの悩みを聞いていくうちに、刑事に言われた、「世のため人のために生きろ」という言葉を思い出し、非行に走る子どもたちの相談役になろうと決意する。息子に頼んで、相談受付サイト「Good-Family.org」を開設した。
ケイさんに会いに来る子どもたちは、一人ひとり異なる深刻な悩みを抱えている。基本的には、メールや電話、会って相談に乗るが、過去にはケイさんの自宅で面倒を見た子どもたちもいた。
親の愛を知らずに精神を病んでしまった子どもたちなので、2度ナイフで刺され、家を燃やされてしまったこともある。それでも、「絶対に子どもたちを裏切ることはしない」と話す。
自宅で面倒を見た子どもの一人は、水泳で全国大会にも出場するほどの努力家な女子中学生だった。しかし、中学2年時、彼女に変化が起きる。彼女の親友が不良仲間と仲良くしだし、母親から、親友とは付き合うなと悪口を言われたことが原因だ。
それがきっかけとなり、母親と距離ができ、彼女も不良仲間と付き合うようになる。親に暴力を振るうようになり、あげくの果てには、母親の前で彼氏とセックスをして、コンドームを投げつけた。
母親がどうしようもできないと諦め、ケイさんに依頼の連絡が来た。ケイさんは彼女を自宅で預かり、約1年半をかけて更生させた。ケイさんが自宅ですることは、医学的なカウンセリングなどではない。
ただ、「一緒に生活すること」だ。家族で出かけるときには、一緒に遊びに行き、一緒にご飯を食べる。ごく一般的な家庭生活をするのだ。その結果、彼女は美容の専門学校を卒業し、美容師を目指し活動している。
このほかにも、ドラッグ中毒の高校生、親から虐待を受けている小学生、拒食症・対人恐怖症の若手社会人など、さまざまな悩みを抱えた人がケイさんを頼りに来る。経営している「ホーミー」にも、全国から悩みを抱えた中高生が訪れる。悩みを聞き、その子どもとともに親や学校の教師に話をしに行くこともある。
10代から精神科に通い、17歳から摂食障がいと不眠症になってしまった男性(29)は、「病院に行っても、睡眠薬を渡されるだけで、何の解決にもならない。向き合って話を聞いてくれなかった。でも、ケイさんは筋を通して、話を聞いてくれる」と話す。
この男性は、父親から退職金で車を買ってあげると言われていたが、その約束を守らなかった父親に腹を立ててしまい、ケイさんが間に入った。
ケイさんは、今の日本を格差が拡大し、差別がいまだに残るアメリカのようだ見る。
「子どもたちが非行に走るのは、子ども自身のせいではない。誰も、好きで非行に走る人間などいない。非行に走らせた周りの大人たちが原因だ。子どもは、学校の先生に疎まれていることを自覚しているし、養護施設に相談すれば、家族と離れて暮らすことになる。病院では、薬を渡されて、お金がかかるだけ。行き場を失った子どもの声は誰が聞くのか」と、日本社会の未来を憂いた。
井上ケイ
1961年、東京・中野生まれ
少年期は阿佐ヶ谷と八王子で過ごす。その後は暴走族を経て、ヤクザの道へ進む。ヤクザ時代にハワイでFBIのおとり捜査にはまり、10年以上、ロスを始めサンフランシスコ、オレゴンなどの米刑務所で過ごす。刑務所内で知り合ったチカーノと呼ばれるメキシコ系アメリカ人との交流から、人生における大切なものを学ぶ。帰国後はその経験を生かし、カウンセリングやイベントを通し、若者と触れ合う。平塚で、「HOMIE」というチカーノ系ブランドを経営し、本場のチカーノカルチャーを広めている。
ケイさんの壮絶な刑務所体験が描かれた一冊、『アメリカ極悪刑務所を生き抜いた日本人』が販売中
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