「生まれた赤ちゃんはホルマリン漬けにされて新薬の治験に」・「治療に使ったガーゼや包帯は再利用」「療養所は、納骨堂・焼き場・宗教施設があり、終生隔離を前提としてつくられた」――全国ハンセン病療養所入所者協議会(全療協)の森和男会長は、療養所での暮らしを学生たちに語った。医学的には解決に進んでいる同病だが、政府の誤った隔離政策で植えつけられた差別や偏見はいまだ残っている。数十年間も隔離されていた患者たちの平均年齢は80歳を超えた。社会的に解決するために、森会長が若者に思いを託した。(オルタナS副編集長=池田 真隆)
ハンセン病の差別撤廃を目指す「THINK NOW ハンセン病ユースチーム」の大学生3人は1月9日、日本財団で森会長に約60分間、話を聞いた。
中嶋泰郁さん(早稲田大学教育学部3年)は、療養所での結婚生活と生まれてくる赤ちゃんについて聞いた。1948年に成立した「優生保護法」では、ハンセン病患者の本人の同意を得ての優生手術(人口中絶手術)を認めた。諸外国からの見られ方を気にした政府は、ハンセン病患者をこれ以上増やしたくないという理由で、患者に子どもを生ませないようにしたのだ。
森会長は、男女で隔離されていたため結婚する者たちが自然とできていたと振り返り、胎児の劣悪な扱いについても説明した。「生まれてきた赤ちゃんはホルマリン漬けにされ、治験に使われていたよ。ハンセン病は遺伝しないし、赤ちゃんは何の罪も犯していない。なぜ治験に使われなくてはいけないのか」。
1948年に優生保護法が成立したことで、患者に対する中絶が法律的には違法ではなくなったとしても、患者の胎児に対するこの犯罪に等しい行為は法律ができる戦前から行われていたという。
さらに、森会長は療養所での暮らしについて話を続けた。療養所は、「納骨堂・焼き場・宗教施設」が設置されている。病気を治すための施設では異様なつくりで、それこそ、「終生隔離」だと入所者に伝えているものだと訴えた。
ガーゼや包帯も一度使用したものを、洗って、蒸気で消毒し、再利用していたという。
■1996年後の課題
細川高頌さん(横浜国立大学教育人間科学部3年)は、1996年に強制隔離や従業・外出などを禁止し、患者の人権を侵害した「らい予防法」が廃止されたが、今、療養所で抱える課題はないかとたずねた。
森会長は、国の誤った政策に対する謝罪と退所後の支援が何もないことについて問題を指摘した。「いきなり、『法律がなくなりました。今日からみなさん、自由に帰ってもいいですよ』と言われても、50・60年隔離されていたほうとしては、どうすることもできない」。
帰るふるさともなく、家族との絆も断絶している。1929年からの「無らい県運動」で、各県が競い合うように患者たちを強制的に入所させるなど、患者の家族は村八分にあったため、縁を切られてしまったのだ。
年齢的に若くて、社会復帰を希望する人には、わずか100万円ほどの支援金がでるだけ。職探しをするためには、運転免許も必要だし、なにより住むための家賃も払わなければいけない。
ハンセン病の差別撤廃について、若い人に期待することは何かと聞いたのは、五十嵐啓太さん(早稲田大学商学部3年)。森会長は、「誤った隔離政策で植えつけられた差別・偏見をなくすためには、それが生まれた10倍もの時間をかけないとなくすことはできない。ぼくらの平均年齢は83歳で、残された時間は少ないけど、最期まで差別が世界からなくなるように努力しなければいけないと思っている。ぼくらの努力を若い人には受け継いでほしいし、それを期待している」と伝えた。
森会長への取材時間は予定時間30分を大幅に超す、1時間を記録した。森会長が高松市沖の離島大島にある国立ハンセン病療養所「大島青松園」に入所したのは1949年で、まだ9歳のころ。それまでには、お米やお水を恵んでもらうために、隣近所に頼み歩いていたことで、「遍路」ではなく「遍奴」とも言われ、見下されて過ごした。
ハンセン病は遺伝もしないし、感染力も弱いことが確認されている。1980年に効果的な治療法が発見され、医学的には解決の方向に進んでいる。しかし、約50年に及ぶ国の誤った隔離政策によって、差別は根強く残っている。
ハンセン病の差別撤廃を訴える啓発サイト「THINK NOW ハンセン病」では、1月27日のグローバルアピールに向けて、著名人や文化人をはじめさまざまな人からのメッセージ動画を集めている。
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